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【ニュースがわかる2024年5月号】巻頭特集は10代のための地政学入門

戦国の侍大将から故郷の治水家に転身②

水を治める先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 【成富兵庫茂安編】

文・緒方英樹(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)※前回の記事はこちら

加藤清正との運命的出会い

茂安は1560(永禄3)年、肥前(佐賀)の鍋島町に生まれました。時は、織田信長が桶狭間で今川義元を破った戦国の世でした。佐賀藩主・鍋島氏に仕えて腕を磨いた茂安は、天草一揆の平定、秀吉の朝鮮出兵などで目ざましい活躍を見せます。そのずば抜けた強さには、藤堂高虎、浅野長政、福島正則ら猛者も認めるほどで、戦国武将としては知る人ぞ知る「時の人」でもありました。その戦場で茂安は運命的な出会いに恵まれます。土木の天才・加藤清正です。

一介の侍大将・二千石の茂安と、一国の大名・清正という大きな身分の隔たりはありましたが、清正は茂安の戦場における働きぶりを認めていました。茂安は、名古屋城築城などで陣頭指揮を執る清正を助けながら土木技術を学んだと思われます。その茂安を清正は一万石という破格の待遇でスカウトします。ところが、茂安はきっぱりと断りました。

「たとえ肥後一石を賜るとも応じがたく候」。断る方もそうなら、郷土への忠義心にあつい茂安を惚れ直した清正も天晴(あっぱ)れでした。

戦国武将として幾多の功績をあげた茂安でしたが、50歳にして侍を捨てます。大坂夏の陣を契機に戦国時代の終わりを読んだであろうことが、佐賀藩主に領内整備の重要性を進言したことからうかがえます。茂安は、戦乱や災害で荒れた肥前の領地を立て直す民政に身を投じていったのです。

地元に帰った茂安は、まず民衆を洪水で苦しめていた暴れ川・筑後川の治水事業に挑戦します。治水事業とは、飲み水や田畑に使う水を川から取り入れ、また、洪水などから地域住民の暮らしを守ることです。

大蛇が、武士を捨てた治水家・茂安の前に立ちはだかりました。並の堤防では呑(の)み込まれてしまうでしょう。茂安の土木技術と農民たちの力を結集し、12年がかりで築いたのが千栗(ちりく)の堤防です。

その筑後川治水において、茂安が施した土木事業とは、筑後川右岸に大規模な連続堤防を築くことでした。その規模は、堤敷幅30間(約54㍍)、堤防高4間(約7.2㍍)、天端幅2間(約3.6㍍)、千栗から坂口までの延長は3里(約12㌔)に及びました。その堤防は、内と外の二重構造として、その間に遊水池を設けます。さらに、堤防の中心部に硬い粘土を突き固めた壁(ハガネ)を仕込み、その土居(土を盛った堤)の川表に杉、川裏に竹を植えて地盤を固め洪水対策機能を強化しました。

工事は、土砂運搬など農民総出による大がかりな人海戦術でした。茂安は、農作業の都合を考慮してあえて急がなかったとも言われ、かつての侍大将は雨の日も農民たちと作業小屋に泊まり込み、皆に湯茶を配って回ったという逸話も残っています。千栗堤防と呼ばれるその名残は、現在も北茂安町の千栗公園に200㍍ほど保存されています。

 かつて関ヶ原の戦いなどで武功を知られた侍大将は、まともな堤防もない無防備地帯にふらりと帰ってきて人々を洪水から救ったのです。水をめぐる争いには、使う時間や順序など管理して村と村の連携を図ったといいます。

戦国時代から江戸時代にかけて活躍したこの人の肖像画は、どこにも見あたりません。よって、顔は知られていないのですが、佐賀県で知らぬ人はいない郷土の偉人です。

現在、千栗土居は、筑後川の堤防整備により、千栗土居公園として保存されています。