【ニュースがわかる2024年6月号】巻頭特集は地震大国ニッポン 被害を減らすために

暴れ川に挑んだ戦国武将②

水を治める先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 【加藤清正編】

文・緒方英樹(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)※①の佐々成政編はこちら

土木の天才・清正公さん

 戦国武将・加藤清正と聞くと、槍使いの猛将といったイメージが浮かぶ人も多いでしょう。
 しかし、ここで紹介する清正は、関ヶ原の戦いの後、肥後(熊本)の暴れ川を次々と治めて、地元の人たちから清正公(せいしょこ)さんと慕われる土木の天才についてです。

 1562(永禄5)年、清正は、豊臣秀吉と同じ尾張国愛智郡中村、現在の名古屋市中村区に生まれ、12才になると母方の親戚にあたる秀吉の小姓となり、その恩義は生涯変わらぬ忠節となって、秀吉に仕えたことで有名です。戦国の合戦で多くの手柄を立てた功から武断派として知られる清正ですが、実は、土木技術者として天才的な手腕を発揮するのは、秀吉亡き後、関ヶ原の合戦以降のことです。つまり、戦国乱世が落ち着き、各地へ散った戦国の武将たちは、築城などで磨いた土木力を治水など大土木工事に注ぎ込むようになったと言えるでしょう。

 戦国時代も末期の1587(天正15)年、肥後(熊本)国主となっていたで先述の佐々成政は、肥後北東部の国衆が中心になって起こした一国一揆の責任を問われ、秀吉の命で切腹させられてしまいます。

 そして、翌年、成政の後を受けて隈本城に入ったのが26歳の清正でした。

 しかし、肥後の領地は乱世で荒れていました。菊池川、白川、緑川、球磨川という4大河川が洪水を起こし、人家や田畑に甚大な被害を与えていたのです。特に、阿蘇の火山灰を運んでくる白川、その暴れように清正は息をのんだことでしょう。民心を立て直し、生産力のある安定したまちづくりのため、清正は治水工事と新田開発をセットで行うことにしました。治水工事や灌漑事業などで肥後の復興を目指したのです。

 しかし、工事に取りかかると間もなく、秀吉から朝鮮出兵を命じられます。そして関ヶ原の戦いや名護屋城普請を経て、清正が本格的な工事に入ったのは10年以上後、肥後国すべての領主になってからのことでした。それから実質10年程度でほとんどの治水利水工事を成し遂げたわけですが、これは現在の土木事業から見ても驚異的な出来事です。

土木の天才が残した「技のデパート」

 清正が、実質わずか10年程度で、熊本城を築きながら、多くの暴れ川から城下まちを守る治水工事を行い、荒れた土地を肥沃な田畑に改造するという数々の土木事業を成しとげた秘密はどこにあるのでしょうか。

 一つには、相当な軍事力を戦ではなく土木工事に投入できたこと。そしてもう一つは、清正が人の意見を聞く柔軟な耳を持っていたことではないでしょうか。「人は城」と言って、領民に耳を傾けた武田信玄をほうふつとさせます。

 清正は、地元の古老や川守りから肥後の持つ風土の特徴や過去の災害の様子、伝統工法など伝授されたことでしょう。普請奉行の飯田覚兵衛をはじめ、普請にすぐれた部下たちは、兵法を応用した知恵やアイデアを出し合い、清正はそれらを集約してオリジナリティに富んだ技術を生み出していったのだろうと想像します。

土木の名人たち

 そして、清正は、土木の専門家を各分野で大いに活用します。たとえば、近江(滋賀県)から連れてきた石積み名人・穴太衆(あのうしゅう)には、城づくりだけでなく、石積みの川堤工事で存分の仕事を任せました。

 また、飯田覚兵衛に所属していた川潜りの名手三孫(孫六、孫七、孫八兄弟)は、川普請前の調査で活躍します。三孫たちは、川の表面にもみ殻や瓢箪(ひょうたん)を流したり、水に潜ったりして、岩や石で起こる渦や激しい流れを調べました。そうして川の流れや特徴をよく知ったうえで洪水を防ぐ知恵を練る姿勢は、武田信玄にも通じます。佐々成政に仕えていた治水の名人・大木兼能(かねよし)も三千石で召し抱えられました。

 その過程で河川に施された数々の仕掛けは、まさに技のデパートと言えます。緑川に施された「くつわ塘(ども)」「たんたん落とし」といった水勢を調節して洪水を防いだり、被害を抑える技、白川の「鼻ぐり井出」などほんの一例です。ちなみに、「鼻ぐり」とは、水路の中にトンネルが掘られ、土砂のハケをよくする天才技のシステムです。

 八代市渡町の球磨川に築いた「八の字堰(ぜき)」は、川の中央から下流へ八の字形に自然石を組む治水と水利を兼ねた堰でしたが、昭和の河川事業で姿を消してしまいます。そして昨年、50年ぶりに親水空間として再生しました。さらに、気ままな暴れ馬のような白川を見事に手なずけて熊本城の外堀とし、坪井川の流れを内堀とした離れ業は、日本初の分流工事とも言われています。

 清正の堤防は、その後背地に「くつわ塘」のような遊水池をできる限り設けて洪水の軽減を図っています。それら堰(せき)は、利水、取水の位置を考慮しつつ、堤防の起首を低くして水が自然に溢れる工夫が見られるのです。

 これら、清正の土木工事の特徴は、その規模の大きさと堅固無比な施工にあると言われますが、その要所要所に築かれた多彩な技が、合理的に川をなだめていきました。

 土木工事には、大層な人手も要したことでしょう。清正は、男女の別なく米や給金を支払い、働く時間も守られたので、農民たちは進んで工事に参加したといいます。今でも絶大な人気の秘密がうかがえます。

 しかし、地球環境の変化に伴う自然の猛威は、いきなり襲いかかってきます。2020年7月4日、熊本では停滞する梅雨前線による記録的大雨で、球磨川の7カ所で堤防が決壊、上流から下流までほぼ全域にあたり甚大な被害を及ぼしました。さらに広い範囲で土砂災害や低い土地の浸水、川の氾濫に警戒が呼びかけられています。※写真は阿蘇カルデラから有明海まで流れる白川。流域は2市3町2村に及ぶ=熊本県菊陽町で

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