近年、世界から注目を集めている「和食」。国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)無形文化遺産に登録されて10年がたちました。その成り立ちなどを、現在、国立科学博物館で開催中の特別展「和食」の見どころとともに紹介します。(「Newsがわかる2023年12月号」より)
「和食」という言葉は意外と新しく、明治時代くらいに誕生したとされています。日本人の目が海外に向き、西洋料理や中華料理が入ってきてから、自国の料理を区別するために“和食”と呼ぶようになったのです。それ以前は、「京料理」「江戸前」などと地域での呼び名しかありませんでした。
南北に長くさまざまな環境を持つ日本には、多様な生き物がすんでいます。私たちはこの“多様性”をどう食べてきたのか。和食をひもとくと、日本の自然や、育んできた技を知ることになります。
織田信長が徳川家康をもてなした本膳料理の再現模型 奥村彪生監修 御食国若狭おばま食文化館蔵。1582(天正10)年5月、織田信長が明智光秀に接待役を命じ、武田勝頼を討ちとった徳川家康らを安土城でもてなした時の料理
江戸時代の屋台の再現(2020年の展示風景)。すし、うなぎ、そばなどが江戸前の代表だ
およそ1万6000年前に始まる縄文時代は、1万2000年ほど前から温暖化に向かい、自然の恵みも豊かになっていきました。縄文人は木の実などの植物を主食に、貝や魚、大型動物などを加熱調理して食べていたことがわかっています。
縄文人は自然をよく知っていて、例えば佐賀市の東名遺跡から出土した大きなかごは、取っ手や底など各パーツに適した材質の植物(つる)を用い、正しく組み合わせて作られています。このように縄文時代からつながっている私たちの自然を観察する力や、それぞれの地域でとれる豊かな食材(山菜や魚、貝)をうまく組み合わせて成立したのが和食です。
縄文時代早期(約8000年前)の東名遺跡から出土した保存処理された大型の編みかご=佐賀市で5月22日
弥生時代(紀元前5世紀~紀元3世紀半ば)になると、大陸から稲作や野菜が入ってきます。和食の中心にあるのは米ですから、弥生時代以降にそのルーツがあるとも考えられます。
実は、今食べている野菜のほとんどが、外国から渡来してきました。日本人が縄文時代から食べてきたのは山菜です。代表的な山菜のワラビは、ヨーロッパでは有毒植物とされています。ワラビのあくには有毒成分が含まれていますが、日本では古くから山菜と一緒に炭や重曹などアルカリ成分を入れて熱湯処理する「あく抜き」をして食べてきました。さらにあくをすべて抜くのではなく人体に影響のない程度残す工夫で、苦みや渋みを味わってきたのです。
多彩な地ダイコンのレプリカ(2020年の展示風景) 国立科学博物館蔵。人の手が加わり品種改良されたものが野菜。野菜のほとんどは海外が原産だ。日本に渡来した後、各地で品種改良が行われ、現在の伝統野菜が誕生し、地域の食文化にとり入れられてきた
お正月に日本各地で食べられている雑煮は多種多様です。もともとは年越しの夜に「年神様」に供えたもちとその地域の産物を、年明けに一つの鍋で煮て食べたもの。雑煮に入れるもちの形も違い、東日本が角もち、西日本が丸もちです。
新潟県 サケといくら雑煮。塩ザケからだしをとりながら、いろいろな具材と一緒に煮て、焼いた角もちを入れ、いくらをのせる=東京都渋谷区で2008年12月
香川県 あんもち雑煮。カタクチイワシの煮干しのだしをベースに白みそ仕立てにした汁に、あんこ入りの丸もちを入れる=香川県高松市で2008年12月