【ニュースがわかる2024年6月号】巻頭特集は地震大国ニッポン 被害を減らすために

砂浜に木を植えた男・大梶七兵衛

水を治める先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 【大梶七兵衛編】

文・緒方英樹(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)

出雲(いずも)は、日本海から湿った気流が島根半島の山地に吹きつけ上昇して雲が湧き出ることから名づけられたと言います。現在の島根県東部にあたります。古事記では、神々の物語を描いた上巻の3分の1を、出雲に関わる神話が占めています。

日本最古の歴史を持つ島根県・出雲大社から少し離れた場所にある旧大社駅は、「日本の建築200選」。神社様式を取り入れた木造建築です。その駅舎東側に大梶七兵衛という人の銅像があり、碑文の一部には「土木事業を興して荒土を開墾した」とあります。江戸時代、わが身の利害を顧みず、地域のために尽くす人のことを義人と呼びました。徳川秀忠の時代、出雲の古志(こし)町に生まれた大梶七兵衛も、出雲で義人と敬われた一人です。ですから、出雲市には七兵衛の銅像や碑がいくつかあるのです。

出雲市大社町にある大梶七兵衛像=島根県出雲県土整備事務所提供

大梶七兵衛、いったいどのようなことを行って、義人と呼ばれたのでしょうか。

出雲の国のヤマタノオロチ・斐伊川(ひいかわ)

「赤く大きな目をして、一つの胴体に、八つの頭、八つの尾」。

神話に記されたヤマタノオロチは、出雲の斐伊川を例えて暴れまわります。

この川の上流部は、砂鉄の産地として有名でした。藩政時代には砂鉄採集の「鉄穴流し」が行われていたこともあって,多量の土砂が斐伊川下流に流入し,典型的な天井川を形成していました。ですから、切られたヤマタノオロチの尾からツルギがでてきたり、その血で川が赤く染まったりする姿になぞらえました。『斐伊川誌』(建設省出雲工事事務所1995)によると、1621(元和7)年から1866(慶応2)年までの245年間に62回の洪水があったということです。

暴れ川として知られている斐伊川

出雲平野は斐伊川、神戸(かんど)川の洪水、宍道湖の増水によって絶えず水害を被っていました。出雲平野の大部分は中国脊梁山地を水源とする斐伊川の運搬土砂です。かつて大社湾に注いでいた斐伊川は、1635(寛永12) 、39(同 16)年の洪水によって東へ流れを変え、宍道湖へ注ぎこんで松江藩の領民を苦しめていました。

大梶七兵衛が現在の出雲市古志町に生まれたのは1621(元和7)、三代将軍家光の時代。幕府も松江藩も農作物の増産が急務でした。洪水や風害など災害と向き合いながらの農業土木にチャレンジした義人の話です。

出雲平野は今でこそ平野の少ない島根県で一番の米どころとして知られますが、江戸時代の初めまでは、斐伊川と神戸川という二つの川が運んだ土砂で形成された扇状地だったのです。『出雲風土記』には、「出雲大川(斐伊川)と神戸川が合流して日本海に注いだ」と記しています。その出雲平野の西、日本海に面した荒木浜は海風と流砂に苛まれた無人の荒野だったため、何人もの先人がこの砂浜を耕地に開拓しようと試みましたが失敗していました。その試みとは、砂浜に木を植えることでした。戦国の乱世が終わっても、水害だけでなく、厳しい年貢の取り立てが農民たちを苦しめていました。

その難題にチャレンジしたのが、父の代から農民たちの苦闘を見て育ち、先人たちの悲願を受け継いだ大梶七兵衛でした。その悲願には先人たちが失敗を重ねて培ってきた経験と技術も含まれていた。荒木浜の開拓を松江藩に願い出た時、七兵衛は齢50歳を過ぎていました。七兵衛は、侍の気骨を持った民間土木家だったのです。

荒木浜に築いた人工の砂山

七兵衛による荒木浜開拓の第1段階は、日本海から吹きつける強風を防ぐため、砂地1.5㌔に防風林をつくることでした。

ところが、木を植える前に流砂をさえぎる大きな壁が必要でした。その方法として、七兵衛は高さ1.2㍍mの柴垣(木の枝を編んだ垣根)を立てて飛砂をとめ、垣の内側に砂が溜まるとさらにその上に垣を築いていきました。そして砂が溜まる、また垣を築く。それを何度も何年も繰り返して5年、人工の砂山が長々と8列にわたってでき上がりました。

強い風により斜めに生長した八通山の松(飯國信行氏提供)

さらに、それから5年。砂山の裏側に灌木を植えて土地を固め、黒松の苗には粘土をつけて根づかせます。8列に平行に植えた防風林は8万5000本とも言われ、約75町歩(75㌶)に生い茂ったということです。これが現在も残る八通山林の源です。銅像の七兵衛が指さした先にあったのは、この八通防風林だったのです。

開拓第2弾は、荒木浜に水を引く

 砂地に木を植えながら、七兵衛はもう一つの難問に悩まされていました。荒木浜にどうやって水を引くか。七兵衛の壮大な目論見は、斐伊川から荒木浜まで掘り抜き、農業用水だけでなく、その水路を物資輸送の舟運にも生かすというものでした。

しかし、またも砂が立ちはだかります。約10㌔の水路を掘り進めますが、元来砂地であるため、水が吸い込まれて流れないのです。そこで七兵衛は、粘土を張りつけたムシロ数万枚を川床に敷き詰め、水路の両側にも粘土を張りつけたことが、1986(昭和61)年の改修工事で判明しています。その粘土は陶土の産地・大津地区から運んだと推察されます。

七兵衛が私財を投じたこの高瀬川開削は、やがて藩の直営普請として多くの人が動員されます。5里(19.8㌔)以内から集まる人には1日米1升5合、5里以遠からの人には1日米1升7合が支給されたことが、松江藩覚書にあります。貧民救済の公共事業でもあったことがうかがえます。

完成した高瀬川の水は、荒木浜に流れる痩せ地を灌漑しただけでなく舟運水路となり、生活、農業、工業用水に至る恩恵をもたらしたのです。その後、七兵衛は、神戸川左岸一帯を灌漑するために、神戸川から神西湖まで開削します。その川幅が十間(約20㍍)だったことから、この人工河川は十間(じゅっけん)川と呼ばれました。

ところが、農民たちは、自分の土地が減ってしまうと大反対。七兵衛は目先のことより先の幸せを見てくれと説得に回ります。難工事のため、土木の神さま・行基の作った阿弥陀仏像に参ったといいます。ほとんどの力と財と使い果たしたであろう七兵衛は、砂浜に植えた苗が八通防風林としてなる直前、69歳で夭折。完成した十間川により古志は「娘やるまい」と謡われていた不毛の地を、「娘やりたや」と言われるほど豊かになったのです。

七兵衛が地域にもたらしてくれた恩恵を子々孫々伝えたいと願った人々は、毎年の大梶祭に託して後世に残しました。地域の盆踊り「出雲大社の大梶踊」では、「・・御初穂あげて拝みましょ、益々繁盛する村内家内 これも大梶翁のお陰なり、出雲大社の大梶踊り」と、地域にとことん尽くした義人のことを歌い、踊り、語り継いでいます。

出雲市立神戸川小学校や出雲市立荒木小学校など地域の小学校では、大梶祭や七兵衛ゆかりの川づくりなど郷土学習を通じて、地域への愛着と誇りにつなげているようです。※タイトル画像はニュースがわかる2021年12月号に掲載した土木偉人カード「大梶七兵衛」=イラスト・ささささデザイン

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