【ニュースがわかる2024年6月号】巻頭特集は地震大国ニッポン 被害を減らすために

築城の名手だった明智光秀②

水を治める先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 【明智光秀編】

文・緒方英樹(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ) ※前編はこちら

 本能寺の変後、焼失した坂本城は、その後に再建されますが、1586(天正13)年11月29日夜10時頃、マグニチュード7.9とも言われる天正の大地震が発生。琵琶湖周辺の集落が液状化や地盤沈下で沈みます。その時、豊臣秀吉は坂本城にいたのです。なぜか。秀吉は、湖水に面した坂本城の風光明媚を殊(こと)のほか気に入っていたのです。しかし、あまりの強い揺れに、肝をつぶして一目散に大坂城へ逃げ帰ったことをルイス・フロイスは記述しています。

 1979(昭和54)年に実施された発掘調査では、10~30㌢の焼土層が発見されました。これは、明智秀満が天守に火を放ち落城した時のものと推定されています。その時、本丸の石垣や石組井戸・礎石・建物等も発見されています。全山総石垣を誇った安土城以前、光秀は石垣や礎石など石造りへのアプローチを試みていたのかもしれません。

福知山のまちづくりと治水

1579(天正7)年、光秀は丹波国に築かれていた横山城を攻略します。光秀は、ここを丹波の拠点として近世的な城郭を築き、城名も福知山城と改めました。京都府福知山市の横山丘陵先端の地形を利用して築かれた平山城です。

 光秀の福知山治世はわずか3年足らずでしたが、丹波統治の拠点として築いた亀山城と同様に、墓の石塔類まで石垣に使っています。銅門番所の左横に展示された転用石の説明版などからは、「石垣に利用する大量の石材が近辺になかったこと、築城に時間的余裕がなかったこと」に続けて、「旧地元勢力・権威の否定」、あるいは「城を守護する意識」などの理由がうかがえます。また、城郭本丸内にある遺構「豊磐(とよいわ)の井」は、深さ50㍍、井戸底は海面下7㍍にも達していました。

光秀は、城下町整備にも力を入れており、治水事業を行っていました。現在も福知山というまちの基礎となっています。

 戦国時代の城づくりは、防御主体の山城から領国経営主体の平山城、平城へ移行していき、城を中心に城下町が形成されました。領国の中心となる城下町建設は、織田信長の安土が先駆とされますが、光秀は堤防を築いて由良川(ゆらがわ)の流れを変えて城下町をつくり、町に地子銭(じしせん)、税金免除の特権を与えて商家を育てたと伝えられています。

 福知山は由良川から運ばれた土砂により土地が形成され、由良川の水運により豊かさを得てきました。一方、度重なる水害は、今に至るまで大きな悩みであり、多くの人が様々な考えを巡らせてきました。福知山市治水記念館では、1953(昭和28)年に起こった台風13号による水害から50年を経過したことを記念し、明治期に建てられた古民家を改修して開館されました。災害の記憶を後世に語り継ぐことを願ってのことです。

 由良川の一角にある明智藪(あけちやぶ)は、光秀が水害対策の一環として造営したと伝えられています。現在は北端が残るのみですが、かつては福知山を流れる由良川が土師川(はぜがわ)と合流する地点で、たびたびの氾濫を起こしていた場所です。由良川の流れを大きく北に付け替えるために造った堤防が明智藪だと言われています。

 由良川と福知山は一体であり、豊かさも厳しさも与えてくれることが、福知山市の研究冊子『福知山の治水とまちづくり―明智光秀・城下町・治水―』からも知ることができます。

城下町を失った城を「裸城」と呼んだように、城下町は町を防御する城壁であると同時に、町を繁栄させる懐でもあったのです。その城下町を由良川によって形成された微高地である自然堤防上に光秀が築いたことは、最近の研究で刮目されてきています。

 このように、光秀による城普請は、石垣の城・安土城へ至る段階の中で、近世城郭への転換にとって一つの役割を持ち得ていたと言えるでしょう。そうした光秀の才覚・力量を主君・織田信長はどのように受け止めていたのでしょうか。

 明智光秀は、丹波地方発展の礎をつくった恩人、「御霊さま」と地元では慕われています。

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