平清盛が夢見た海運都市・福原

水を治める先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 【平清盛編】

文・緒方英樹(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)

 空海がつくったという伝承もある「いろは歌」は無常観を詠っています。平清盛は、その空海と大輪田泊(おおわだのとまり)という港でつながっています。※空海編はこちらhttps://www.newsgawakaru.com/knowledge/2824/

 大輪田泊は難波津(なにわづ、大阪港)に船が入る前の船所(港)で、奈良時代から天然の良港でした。平安時代には空海とともに遣唐使として唐に渡った最澄が寄港しており、828年に空海が修築の別当(責任者)となって工事に関わっているのです。

 それから340年ほど後、今度は清盛が大輪田泊と関わることになります。清盛が、海運都市として建設しようとした福原(兵庫県神戸市兵庫区あたりか)の眼下に広がっていたであろう港のある場所が大輪田泊です。

 清盛の時代、大輪田泊は風波や川の氾濫で堤防がたびたび壊れました。そこで清盛は、海中に石を沈めて人工島を造り、風や波を防ごうと考えます。ところが、石の島は築いてもすぐに風波で壊れてしまいます。たまらず築島奉行は「これはもう人柱をたてるしかない」と清盛に進言します。首を大きく横に振った清盛は、石に一字ずつ一切経を書いて船に積むと、船ごと海に沈めます。「経の島」(別称:経ヶ島)と呼ばれる由来として伝えられている逸話です。

 清盛は、大輪田泊が完成するとすぐに福原に遷都します。それは、清盛が夢に描いた大海原へとつながる貿易拠点都市づくりでした。大病を患っていた清盛でしたが、後白河院ら貴族たちの反対にも動じないほどの勢いがありました。さらに清盛は、大型船の出入りを可能にするため、音戸瀬戸(おんどのせと)の開削や瀬戸内の港づくりなど土木事業に乗り出します。

 清盛の土木 音戸瀬戸

音戸瀬戸とは、大型船の航行を可能にするための水道、すなわち船の通る道です。その道は、平家一族や貴族たちが厳島神社に渡る航路でもありました。堰堤(えんてい)という堤防を築いて内部の海水を排出し、海底を掘削したという説もあり、延べ人員約6万人、工期は約200日とも伝えられます。

 しかし、理想都市づくりという夢は半年で消えてしまいます。熱病であっけなく逝った清盛を失った平家は、源平合戦で敗れ、福原も焼失。やがて、大輪田泊は時代とともに朽(く)ち果てていきました。

 その後、清盛の夢は鎌倉時代になって息を吹き返します。大輪田泊を僧・重源(ちょうげん)が修築、兵庫津と呼ばれた港は、室町時代になると遣明船の発着地として外界に開かれ、江戸時代には瀬戸内海運の拠点となります。その兵庫津も、明治時代を迎えて神戸港に役目を譲るのです。福原を国際的な海運都市にしたいと目論んだ清盛の夢は、世界的な国際貿易港となっていく神戸港に引き継がれ、「経の島」もまたポートアイランドや六甲アイランドとして蘇ったというわけです。

   音戸瀬戸もまた現在、瀬戸内海で海上交通の要となっています。その橋の下に清盛塚は建てられ、石垣に囲まれた塚の中央には、供養のために立てられた石碑があります。(※写真は神戸市兵庫区切戸町にある十三重の石塔でできた清盛塚(左)と清盛像。)

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