水を治める先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 【空海編】
文・緒方英樹(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)
日本列島には雨のきわめて少ない寡雨(かう)地帯と多雨地帯があります。なかでも香川県の讃岐平野は瀬戸内でも年間降雨量の少ないことで知られています。高松空港から降り立つ飛行機からは、幾つかのため池が見えます。香川県には現在、大小1400ほどのため池がありますが、なぜ、日本一面積の小さい香川県に古来より数多くのため池があるのでしょうか。
その讃岐平野では古くから米作りが行われていましたが、雨が少なく、大きな河川も少ない。山が低いために、川の水を引くことが難しい。そのためのため池だったのです。なかでも、香川県仲多度郡まんのう町にある満濃池は、日本最大のかんがい用のため池です。大宝年間(701~704年)に讃岐の国守であった道守朝臣(みちもりあそん)が築造したと言われています。2016年に、国際かんがい排水委員会によって、「世界かんがい施設遺産」に四国で初めて選出されました。
「百姓が父母の如く恋い慕う」空海の土木技術
その満濃池は818年に決壊します。朝廷の役人が工事を行いましたが、大きな池の強い水圧に耐える築堤技術も、大がかりな人手もなくて行き詰まっていました。
度重なる干ばつに備え、地元の民衆が期待を込めて待ち望んだのが故郷讃岐の生んだ弘法大師こと空海でした。当時、唐から帰国した空海は、時の人として注目の的でした。遣唐使に従って唐に渡り、中国密教の頂点にあった恵果(けいか)に認められ、その知識体系を半年近くでマスターし、20年の予定をわずか2年で目的を達し、帰国後は嵯峨天皇即位と時を同じくして動き出し、真言密教確立のため多忙を極めていました。
地元農民は国司を通じて懇願します。国司は朝廷に「百姓が父母の如く恋い慕う」空海にぜひ満濃池修築をと切望したのです。そして、官民こぞってのラブコールに空海は応えます。
満濃池修築と拡張には、空海を工事責任者として、渡来人系技術者集団の土木技術が駆使されたと推測されます。その土木技術の特徴的なこととして、水圧を両側の岩盤で支える堤は、水圧に強い弓形状に湾曲したもので、現在のアーチ式堰堤の創始です。
水の勢いを弱め、堤防を補強する「しがらみ」、池からあふれる水を流して調節する水路「余水吐(よすいは)き」=お手斧岩(ちょうないわ)=を考案するなど、現在でも通用するダム建設技術によって満濃池修築は完成します。電話など情報機器も建設機械もなかった時代の巨大プロジェクトです。
その後、江戸時代に修築・復興され、明治から昭和の時代に拡張された満濃池は、日本で最大級の農業用溜池として現在も機能しています。そして、今年も6月15日、「ゆる」と呼ばれる池の取水栓を抜く「ゆるぬき」が行われると、周辺では一斉に田植えが始まります。
“満濃抜いたら牛馬離すな”。付近の村々に残る言い伝えです。(※写真は日本最大級の貯水量を誇る満濃池)
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