【ニュースがわかる2024年6月号】巻頭特集は地震大国ニッポン 被害を減らすために

サムライ・エンジニア 青山士

水を治める先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 【青山あきら編】

文・緒方英樹(土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)

道を開いた内村鑑三の言葉

 士(あきら)という名前は、静岡県中泉村(現在の磐田市)に生まれた明治11(1878)年の十と一を組み合わせて命名されたといいます。士にはさむらいという意味もあります。祖父の宙平も貧民救済のためには私財を投げ出すほどのサムライでした。そうした家系に青山士は生まれました。

 そして、青山の進路に大きな影響を与えたのは、武士道的クリスチャンと呼ばれた内村鑑三でした。東京府尋常中学校(現在の東京都立日比谷高校)から第一高等学校(旧制一高)に進んだ青山は、「自分は何のために生きてきたのか、自分は死ぬまでなすべきか」と煩悶します。明治の初め、青年たちの多くにはそういう必死の心意気があったのです。

 その頃、友人の誘いで内村鑑三の講演を聴いて青山の心は開かれます。

 「我々が死ぬときには、我々が生まれたときより世の中をすくなくともよくしていこうではないか」。内村の問いかけに身も震えるほど感動したということです。

内務省土木局時代の青山士

人類のための大土木「パナマ運河工事」に挑戦

 「土木技術で人民救済を行う」。青山は、そう決心して東京帝国大学工科大学土木工学科に進みます。主任教授は小樽北防波堤工事を指揮した廣井勇ひろいいさみでした。

 1903(明治36)年、大学を卒業した青山は、師・廣井の道をたどるように、ひとりアメリカに渡ります。廣井教授から米国がパナマ運河建設のために技術者を募集していることを聞き、廣井に紹介状を書いてもらって海を渡りました。紹介状の宛先は、米国政府のパナマ運河工事委員会委員でコロンビア大学のW. H.バー教授。人類のための大土木工事への挑戦でした。

 工事が始まるまで住み込みのアルバイトをして仕事を待ちましたが、任務は測量のポール持ち(末端測量員)から始まりました。未開の熱帯ジャングルでマラリアにかかるほど命がけの過酷な測量調査が続きました。

 やがて、パナマ運河工事委員会に採用され、パナマ運河開削工事に従事して2年、青山の高い能力と熱心さが認められます。最も難しいとされたガツン閘門(こうもん=水門)の設計を任されたのです。そうした期待に応えた青山は、異例の昇進を重ね、ドラフトマンと呼ばれる「年俸2千ドルの設計技師」になっていました。

 青山は、パナマ運河工事に7年半、青春の情熱を傾けました。ところが、完成を見ずにやむなく帰国することとなります。青山は最後までその真意を黙して語らなかったといいます。第一次世界大戦が勃発する前の排日暴動で、日米の緊張が高まった時期であったことと無関係ではないと思われます。

 パナマから帰国して内務省に勤務した青山は、2つの大きな公共事業でその信念を実践しました。荒川放水路の建設と、信濃川補修工事です。

関東の「荒ぶる川」に立ち向かう

 関東地方を流れる荒川は「荒ぶる川」と呼ばれていたほどに、江戸時代から毎年のように洪水を起こしていました。1910(明治43)年に利根川、荒川で大洪水が発生します。利根川も荒川も堤防が切れて、東京の東3分の1ほどが水没しました。

 「連日降雨で8日に至り漸次烈しくなり、10日には暴風雨となり、荒川筋は未曾有の大洪水となり…」と報じられました。

 停滞していた梅雨前線に向かって2つの台風が襲来し、大雨を降らせたのです。明治以降、荒川最大の出水となるこの洪水は、利根川の洪水と合わせて埼玉県内の平野部全域を浸水させ、東京下町にも甚大な被害をもたらしました。

 内務省は、東京を大水害から救うため、パナマ運河工事で実績のある青山に工事の指揮を託しました。帝都を守るには荒川に放水路を掘る大工事が必要だったのです。

 岩淵水門工事主任となった青山のスタイルはいつも脚にゲートル、腰に手ぬぐい。現場では率先して動いたということです。「技術者は現場近くに住む」という現場主義をモットーに、荒川放水路の建設現場近くの借家に住み、日夜、工事現場を見回りました。

運河工事の経験が活かされた岩淵水門

 幅約500m、距離約22㎞の放水路工事で、最も難しかったのが軟弱地盤に岩淵水門をつくる工事でした。岩淵水門とは、現在の荒川と隅田川を仕切る水門です。パナマ運河の経験を生かして完成した開閉自在な岩淵水門は、1923(大正12)年の関東大震災にも耐えましたが、工事現場の堤防18カ所が被害を受け、青山は不眠不休で現場を走り回ったそうです。

 そして震災の翌年、15年かけて荒川放水路が完成。水門の入り口に建てられた祈念碑に青山は「われらの仲間を記憶するために」と刻みました。

 その後、新しい水門がつくられて旧岩淵水門は、子供たちの学習の場や、人々の憩いの場として保存されており、荒川放水路とともに近代化産業遺産に認定されています。

青山は晩年、最も思い出に残る仕事はパナマ運河だと述懐しています。そして、このアメリカの工事で学んだことの一つは、「国民の税金を使う公共事業は、国民の生活と幸福を追求しなければならないこと」だったと言っています。
※メイン画像は荒川放水路と隅田川の分岐点に造られた岩淵水門

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