日本でラジオ放送が始まってから、今年で100年を迎えます。電波に音声をのせて、ニュースやスポーツ、音楽、娯楽などを多くの人に伝えてきました。そんなラジオの歴史を振り返ってみましょう。【篠口純子】
◇いつ始まったの?
「あー、あー、聞こえますか。JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります」
1925年3月22日、日本でラジオ放送が始まりました。午前9時半、社団法人東京放送局(後のNHK)が、東京・芝浦にあった東京高等工芸学校(後の千葉大学工学部)の図書室に設けた仮放送所から、アナウンサーの第一声を流しました。JOAKは、どこの放送局かを区別するサインです。その後、初代総裁の後藤新平のあいさつ、ニュース、音楽、天気予報と続きました。
7月12日には東京・愛宕山に完成した放送局から本放送が始まり、大阪放送局、名古屋放送局でも相次いで放送がスタートしました。
ラジオ放送が始まったきっかけは、23年9月1日に起きた関東大震災でした。当時、ニュースを伝える手段はおもに新聞でしたが、新聞社は地震で大きな被害を受け、新聞を作ることができませんでした。さまざまなデマが流れ、人々は混乱しました。このため正確な情報が速やかに伝わることが求められ、ラジオ放送は始まりました。放送が始まった3月22日は「放送記念日」となっています。

◇ラジオはいつできたの?
1900年にカナダの電気技術者が、約1マイル(約1・6キロメートル)離れた地点で音声信号を受信することに成功しました。6年後には音楽や聖書の朗読を放送しました。しかし、14年に第一次世界大戦が始まると軍事機密を知られないように、個人での電波の受信が禁じられます。
この命令は第一次世界大戦の終わりにともない解除され、20年にアメリカのペンシルベニア州でラジオ局が開設されました。これが世界初の商業放送の始まりです。アメリカ全土で放送され、アメリカ大統領選挙の開票結果を伝えました。
当時は、電源を必要とせずレシーバーを耳にあてて聞く「鉱石ラジオ」が主流でしたが、ラジオ局が開設すると「真空管ラジオ」が普及しました。スピーカーで大きな音量の放送が聞けるようになり、20年代から30年代にかけて、リビングルームに真空管ラジオを置き、天気予報、コンサート、スポーツ中継などを聞くようになりました。しかし、真空管ラジオは高さ約90~150センチメートルと大きく、電力も大量に必要でした。
その後、54年にアメリカで世界初のトランジスタラジオが発売され、高さ約13センチメートルと小型になりました。

◇日本での開発は?
国産第1号の鉱石ラジオは、電気機器メーカー・シャープの創業者の早川徳次が作りました。アメリカから輸入された鉱石ラジオを大阪で手に入れ、研究に取りかかりました。
1925年のラジオ放送開始直後に発売された鉱石ラジオは、飛ぶように売れました。26年のラジオ聴取者28万のうち、真空管ラジオは20%、鉱石ラジオは79%でした。輸入品の真空管ラジオは価格が高く、普及にはほど遠かったのです。そこで早川は29年、国産の真空管ラジオを発売します。価格は輸入品の10分の1で、真空管ラジオは一家だんらんの場を作りました。

第15回 ヘルシンキ・オリンピック(1952年) 競泳男子400メートル自由形決勝に出場の古橋廣之進選手の放送を前にラジオの前に集まる留守家族
一方、東京通信工業(後のソニー)は55年、「SONY」のブランド名をつけた日本初となるトランジスタラジオを発売しました。小型なのでリビングルームを離れて自分の部屋や移動中でも聞けるようになり、「一家に1台」から「1人1台」となりました。
◇代表的なのはどんな番組?
1927年から全国高校野球選手権大会(夏の甲子園)の前身の大会や、28年から大相撲の中継が始まりました。現在はテレビでおなじみの「のど自慢」「紅白歌合戦」はラジオから始まりました。

「のど自慢」は46年1月に「のど自慢素人音楽会」として始まりました。敗戦から5か月後、ラジオは数少ない娯楽で「国民に気持ちよく歌を歌ってもらおう」と企画されました。第1回の出場者はラジオで募集し、900人を超す応募者が東京都千代田区にあったNHK東京放送会館に集まりました。
「紅白歌合戦」は51年、1月3日の正月番組としてラジオでスタートしました。53年にテレビ放送が始まり、第4回からは大みそかのテレビ番組となっています。
◇現在の役割は?
ラジオ放送が始まった当初は契約が必要で、受信料を払わなければ聞けませんでした。それでも1952年にはラジオ受信契約数は1000万台を突破し、全国の世帯での普及率は約60%に及びました。その後、テレビの普及が進むと放送法が改正され、68年にラジオの受信料は廃止されました。
ラジオは、災害時にも強いという特長があります。テレビやインターネットが使えない状況でも、ラジオは使えます。総務省の調査では、2011年の東日本大震災の時に、直後に役に立った情報源はラジオでした。
地域の情報を伝える各地域の放送局「コミュニティーFM」は、被災者の安否情報、避難所や給水所の情報などを提供します。東日本大震災当時、宮城県石巻市の放送局は、スタッフが避難所を巡って入手した安否情報を流し続けました。16年の熊本地震では、被災者の心をいやそうと、リクエストに応じて地元小学校の校歌を流す取り組みがありました。(2025年02月19日毎日小学生新聞より)