推しの城 おもシロ ランキング【月刊ニュースがわかる2月号】

朝ドラのモデル 牧野富太郎ってどんな人?【ニュース知りたいんジャー】

植物学者の牧野富太郎(1862~1957年)をモデルにしたNHK連続テレビ小説「らんまん」の放送が始まりました。独学で植物の知識を身につけ、1500種類以上もの植物を命名して、「日本の植物学の父」と言われています。どんな人物だったのでしょう。【篠口純子】

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◇どんな子どもだったの?

 牧野富太郎は江戸時代末期の1862年、現在の高知県佐川町で生まれました。酒造と雑貨を営む裕福な商家の一人息子でしたが、3~6歳の間に父母と祖父が亡くなり、祖母に育てられました。
 小さい頃から大の植物好きでした。寺子屋で習字を学び、私塾で漢学や地理、天文、物理、英語学校で英語を学びました。12歳で小学校に入学しますが、授業に飽き足らず自主退学し、植物採集に明け暮れます。15歳で佐川小学校の臨時教員となってからも、植物採集は続きました。2年で退職し、高知市に出て高知中学校の教員、永沼小一郎と出会い、本格的に植物学を志すようになります。「私の植物学の知識は永沼先生に負うところ極めて大である」と後に自叙伝に書いています。採集した植物を、小野蘭山の「重訂本草綱目啓蒙」で調べ、植物の名を覚えました。

◇植物学者としての働きは?

 22歳で上京し、東京大学理学部の植物学教室に出入りを許され、研究に打ち込みました。27歳の時、新種のヤマトグサを発見し、学名(世界共通の名前)をつけました。国内で日本人が新種に学名をつけるのは初めてでした。その後も、コオロギランやムジナモを発見します。しかし、教授とうまくいかず、研究室への出入りを禁止されてしまいます。

 31歳で帝国大学理科大学(現・東京大学)の助手になりました。植物調査のため、全国各地へ足を運びました。しかし再び教授と衝突したり、経済的に苦しくなったりと、困難が立ちはだかります。そうした中で、植物図鑑「大日本植物志」を刊行しました。

◇富太郎を支え続けた妻

 大学の研究室に向かう途中にあった菓子屋の娘、寿衛を見初め、結婚しました。やりとりを交わした手紙の中では、「牧チャン」「寿チャン」と呼び合っていました。富太郎は研究のための書籍を購入するなどしてお金を使い果たし、多額の借金を抱えました。富太郎が研究に没頭できるように支えたのが寿衛でした。

 1923年に起きた関東大震災で、都市部では大規模な火災が発生しました。火災から標本や書籍を守るために、寿衛の努力で東京の渋谷から練馬区に転居しました。ところが引っ越して2年後、寿衛は55歳でこの世を去りました。富太郎は寿衛をしのび、前の年に仙台で発見した新種のササを「スエコザサ」と名付けました。

◇94歳まで研究は続いた

 77歳で47年間務めた東京帝国大学の講師を辞めました。翌年、集大成となる「牧野日本植物図鑑」が完成しました。花や葉が精密に描かれた図鑑は今も、広く親しまれています。

 年をとっても植物への情熱は衰えることはありませんでした。山へ植物採集に出かけられなくなった90歳ごろから、練馬の自宅の庭で過ごすようになります。庭には富太郎が採集したり、取り寄せたりした、たくさんの種類の植物が植えられ、「わが植物園」と呼んで慈しみました。書庫には4万5000冊の本が足の踏み場もないほど積み上げられていたそうです。書斎では執筆にいそしみました。1957年に94歳で亡くなるまでに、1500種類以上の植物を命名し、約40万点の標本を収集しました。

◇富太郎ゆかりの場所は?

 富太郎がこの世を去った翌年、練馬区立牧野記念庭園、高知県立牧野植物園(高知市)、東京都立大学牧野標本館(東京都八王子市)がオープンしました。都立大学の標本館には、富太郎の遺族から寄贈された約16万点の植物標本が所蔵されています。

 晩年の約30年間を過ごした住居と庭の跡地は、練馬区立牧野記念庭園として公開されています。富太郎のひ孫で学芸員の牧野一浡さん(77)は10歳まで、ここで富太郎と暮らしていました。ご飯ができると、書斎で研究している富太郎を「ご飯だよ」と呼びに行ったそうです。「病床にあってもすぐに書斎にきて、図鑑を校正したり、書き物をしたりしていました」。生誕160年記念事業として書斎が再現され、3日から公開が始まりました。のりやハサミ、万年筆など、こだわりの文房具もあります。ドラマが始まり、「研究者としての富太郎に焦点をあててほしい」と話しました。

(2023年04月12日毎日小学生新聞より)