神田外語キャリアカレッジ は、神田外語大学や神田外語学院を母体とする神田外語グループの一事業体として、語学を起点にグローバル社会における課題の解決やプロジェクトを推進できる人材の育成に取り組んでいます。
今回はそんな当校の代表、仲栄司のグローバルビジネスでの体験談をお送りいたします。グローバル環境の中で仕事を進める上でのヒントや異文化についての気づきなど体験談を交えながら繰り広げられる世界には、失敗談あり、ハラハラ感あり、納得感あり。ぜひお気軽にお読みください。
1983年にNECへ新卒で入社して3年目、まだドイツでのビジネスが立ち上がる前のこと。私はデュッセルドルフのアルトシュタット(旧市街)にいました。仕事を終え、ハードディスクドライブの営業マネジャーであるハーターと二人でアルトビアー(黒ビール)を飲んでいました。ハーターはドイツでのハードディスクドライブを拡販するために雇われたばかり。ミュンヘン在住でしたが、ドイツ会社のオフィスがデュッセルドルフにあったため、平日はデュッセルドルフ、週末はミュンヘンという生活です。私は、彼の初出勤の日をめがけて日本から出張に行け!と命じられ、長期出張の身。お互い、デュッセルドルフでは家族もいないので、毎晩、アルトシュタットに繰り出し、これからどうするか議論していました。
Tobias SCHWARZ / AFP
ハーターは、アメリカ系の会社で鳴らした営業マン。その力は業界では知る人ぞ知る存在。しかし、日系の会社で同じように力量が発揮できるのか。そもそもほんとうにそんな力があるのか。最初は半信半疑でしたが、毎晩議論するうちにハーターの人柄や考え方にぐいぐい引き込まれていきました。
「このビジネスは種まきに時間がかかるけれど、半年我慢して欲しい。必ず受注を取ってみせる。100億円も夢じゃない」とハーターは言うのです。「信用してほしい。日本がしっかり支援してくれれば、市場やお客は確実に私がおさえる。そのためにはMr.Nakaのサポートが必須。必ずやれる!」と力強く言うのです。まだ入社3年目の私を頼ってくれてとても嬉しく感じましたが、それ以上にハーターの人柄、情熱、そして真摯なビジネスへの姿勢に大いに感じるものがありました。ハーターを徹底的にサポートすればいける!これは二人三脚だ!と思いました。
実際、半年後には受注がおもしろいように取れました。2年後には100億円を達成!当時のドイツ会社は欧州大陸をテリトリーとしていたので、イタリア、フランス、オランダなどにも彼の人脈で優秀な営業スタッフを雇用し、ビジネスを拡大していきました。市場やお客の声をつかんでいるハーターの言い分をうまく伝え、本社を動かすのが私の役目。販売は現地人、生産などのサポートは日本人というコンビネーションが功を奏したのだと思います。本社の事業部も私の言うことをよく聞き、サポートしてもらいました。ビジネスが負の回転をするときは、現場を知らない本社がああでもない、こうでもないと言い、無理難題の要求を現地に突き付けてきます。やはり現場のことは現場に任せる、というのが基本だと思います。その際、現場と本社をつなぐ役割が重要で、アメリカ系の会社での経験から、ハーターはその重要性を十分すぎるほどわかっていたのです。
もう一つの成功要因は、立ち上げ時に核となる人を雇い、その人を軸に徹底的にビジネスを推進させることです。最初からどかんと投資して体制を組むことが難しい状況ではなおさらです。ドイツはもちろんのこと、イタリアやフランス、オランダでも受注が取れたのは、ドイツ人の彼を軸に活動していけたからだと思うのです。
7年前、ハーターとミュンヘンで再会しました。彼は70歳でしたが、まだビジネスの世界で活動していました。あの頃の情熱は一向に衰えていません。私が「ハーターの情熱はあの頃と変わらないね」というと「デュッセルドルフ時代にお互いによく言い合った“諦めない精神”が今も続いてるからね」と言いました。我々は再会を祝してミュンヘンのアルトビアーで乾杯しました。”プロースト(※1)、Never give up!”
※1 ドイツ語で乾杯を意味する単語
著者情報:仲 栄司
大学でドイツ語を学び、1982年、NECに入社。退職まで一貫して海外事業に携わり、ドイツ、イタリア、フィリピン、シンガポールに駐在。訪問国数は約50カ国にのぼる。NEC退職後、 国立研究開発法人NEDOを経て、2021年4月より神田キャリアカレッジに。「共にいる時間を大切に、お互いを尊重し、みんなで新たな価値を創造していく」、神田外語キャリアカレッジをそんなチームにしたいと思っています。俳句と歴史が好きで、句集、俳句評論の著書あり。
※メイン画像は当時オフィスがあったデュッセルドルフ中央駅