【ニュースがわかる2024年10月号】巻頭特集は「発明が世界を変える」

なぜ県が多いの?【疑問氷解】

Q 都道府県はどうやって分かれて、なぜ県だけ多いの?(東京都文京区・小4)

藩をなくす経緯でちがい

 A 長く続いた武士の時代、日本はいくつもの「藩」に分かれていましたが、1868年の明治維新で新政府ができた後、1871年に廃藩置県といって「藩」をなくし「県」を置く改革が行われました。なぜ全部「県」にしなかったのでしょう。毎日小学生新聞の連載「地理もつもれば」出題者で文教大学講師の澤内隆さんは「藩が一斉に県になったのでなく、都道府県それぞれいきさつがちがいます」と言います。

 「廃藩置県」(松尾正人著)などによると、明治維新後まもなくは、藩も県も府もいっしょにありました。江戸幕府が倒れたとき、幕府のあった江戸(東京)、天皇がいた京都、商業の中心地大阪に加え、幕府の直接管理していた重要な港などに置かれたのが「府」です。

 廃藩置県当時は3府302県でしたが、整理して72県になり明治の半ばには43県になりました。「『県』は古代の日本で地方を区分けする単位として使われた『県』からきたのでは」と澤内さん。藩はそれぞれ殿様が民や土地を治めるものでしたが、廃藩置県の前、1869年に版籍奉還という改革があり、各藩の人民や土地を明治政府の役人が管理するようになりました。『県』には、『藩』の考え方をなくし、中央政府の力を強調する意味も込められていたようです。

 北海道の「道」も古代の行政区分「五畿七道」にちなんだとみられ「藩」や「県」より大きな単位です。北の大国ロシアに向き合う拠点としても意識されるようになり、明治政府は県ではなく北海道開拓使という役所を置きました。北海道立文書館のサイトによると、「北海道」の名称は、1869年の太政官布告という文書で公式に使われ、一時は「札幌」「根室」「函館」の3県があったそうです。

 江戸は維新後「東京」に呼び名が変わったものの大阪や京都と同じ「府」でしたが、第二次世界大戦中、国の管理を強める法改正で「都」となり、今もその名称が使われています。(「疑問氷解Vol.9」より)