信長・家康が恐れた男・武田信玄は治水の名人だった#2

水を治める先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 【武田信玄編】

文・緒方英樹(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)

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水に逆らわず、水の力を利用する

 信玄が父を追放して武田家17代当主を継いだ頃の甲斐国は、危機的状況に置かれていました。

 「国中ノ人民牛馬畜類共ニ愁悩セリ」(『塩山向嶽禅庵小年代記』山梨県指定文化財)。

 人民はおろか牛馬畜類まで苦悩していたと記録されています。相次ぐ戦乱と重税で内政は乱れ、繰り返す水害で民衆は疲弊しきっていたのです。

 そして、21歳の信玄が甲斐の領主になった翌年の1542(天文11)年、富士川の大洪水が甲府盆地を呑みこみます。若き領主は、思案のあげく、水の観察から始めます。「水はどう流れ、土砂はどう動くのか」。地形や山の様子を丹念に調査し、会議の場を何度も設けます。家来の意見をよく聞き、出自に関係なく優秀な人材を発掘し、水を鎮める知恵や工夫すなわち土木のやり方を討議、ある結論に達します。

 「水の力に逆らわず、水の力を利用する」。

 信玄が得意とした合戦になぞらえて言うなら、敵(水)の勢いを味方につける作戦でした。自然と共に生きる哲学をもって信玄の土木事業は始まります。

 信玄は、川の水が大洪水を起こす前に、あちこちで水のエネルギーを弱める様々な作戦を考えます。特に、大きな被害を及ぼしているのは、釜無川と御勅使(みだい)川が合流する地点だったので、そこに段階的な作戦を仕掛けました。その代表的なものが、当時、土手の長さが350間(約650メートル)と推定される信玄堤です。急流河川に敷設された不連続堤防は、霞堤とも呼ばれます。

 信玄堤という堤防を本合戦場とみなし、手強い敵の力を次々と弱らせて迎え撃つ。それが信玄と家来たちが考えた作戦でした。現在の言葉で言えば、氾濫(はんらん)の洪水流を段階的に弱めていく減災システムです。

 山地から激しい水と土砂をもたらす御勅使川。その川の中に角張った石を積んで石垣を築き、流れを南北に分けます。その堰の形から将棋頭(しょうぎがしら)と呼ばれています。するとどうでしょう。二分された川の流れは、強さも二分されて弱まりました。二分されてできたた新しい川・新御勅使川は、竜王高岩という岸壁にぶつかるように仕向け、さらに水勢を弱めさせました。

 さらに、長さ650メートルほどの土手と1キロにも及ぶ石積堤が築かれました。信玄堤です。堤には姫笹を植え、堤の内外にも松などで水の侵食から河岸を守る水害防備林をつくって万全を期しています。これらの大規模な治水工事は、川中島の合戦などを何度も挟んで20年ほどかかったとみられます。

 信玄によるこうした領地の社会資本整備は、戦乱を勝ち抜くための必要不可欠な前提だったのです。信玄のみならず多くの戦国武将たちによる土木技術の経験と蓄積が、江戸から明治の近代化、今日の社会資本につながっているのです。(※写真は武田信玄が築いた信玄堤。甲斐市竜王にあり、現在、周辺は公園として整備されている)

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