信長・家康が恐れた男・武田信玄は治水の名人だった#1

水を治める先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 【武田信玄編】

文・緒方英樹(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)

水害のトラウマ

 上杉謙信と戦った川中島の合戦でよく知られ、風林火山の旗印が有名な武田信玄。織田信長に恐れられ、信長・徳川家康連合軍を三方ヶ原で打ち負かした戦国の猛者ですが、幼いころから水害に悩まされる土地で育ちました。

 信玄が生まれた甲斐国(山梨県)の語源は、「峡(かい)」といって四方を山に囲まれた谷を表したものとされています。山に降った雨は川に注ぎ込み、洪水を起こすと、石や泥と一緒にものすごい勢いで甲府盆地に押し寄せたのです。家を、田畑を、人馬を流す大洪水、生活や風景を一変させてしまう自然の猛威を、信玄は子どもの頃から心に刻んだことでしょう。

 山梨県甲府市のJR甲府駅南口で降りると、塩山御影石台座の上に、右手に軍配、左手には数珠を持った堂々たる武田信玄像が迎えてくれます。川中島の戦い陣中を模した像のようです。

大いなる変革の嵐の中で

 戦国の猛者・武田信玄が優れていたのは戦の仕方だけではありませんでした。笛吹川、釜無川、その二つが合流する富士川といった暴れ川を治めるため、数多くの土木工事を成功させた名治水家でもありました。

 でも、なぜ戦国武将である武田信玄が土木事業を行ったのでしょうか。

 私たちの多くが持つ戦国時代への興味は、武将たちが群雄割拠するドラマチック性に向けられることが多いようですが、一方、戦国時代とは、鎌倉時代から室町時代にかけて形成された社会秩序が解体されていく転換期と見ることもできます。

 守護の支配下にあった者や新興の実力者などが新しい権力階級にのし上がり、領国を統治していきます。彼ら戦国の武将たちは、体制から離脱、自立して、独自に地域の支配権を主張あるいは獲得していきました。そうした社会状況の中で、家臣が盟主を追放する下剋上という風潮が醸し出されたことでしょう。武田信玄による、父・信虎の国外追放もまたそうした風に促され、家中や領民を巻き込んでの権力闘争に突き進んでいきました。

 合戦によって領地を奪い合った戦国時代は、激しい経済競争の時代でもありました。経済に強い武将と弱い武将の差は、戦争に大きく影響しました。その経済力を高め、領地と領民を守るための土台を支えたのが、土木力であったと言えるでしょう。領土の内政を確立し、経済基盤を持つことが戦国時代の覇者となれる必須条件とするならば、治水や築城など土木技術に長けることが戦国バトルを勝ち抜く大きな要素であったと考えられます。(※写真はJR甲府駅前にある武田信玄像)

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