【ニュースがわかる2024年6月号】巻頭特集は地震大国ニッポン 被害を減らすために

治水の恩人、ヨハネス・デ・レイケ

水を治める先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 【ヨハネス・デ・レイケ編】

文・緒方英樹(土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)

 福岡県と佐賀県にまたがる若津港導流堤わかつこうどうりゅうていは、有明海の干満差で生じる土砂を河口に押し流すという壮大な堤です。引き潮の時だけ、その姿を現します。

 オランダ人技師、ヨハネス・デ・レイケが流域視察を行い、その指導の下、石黒五十二ら日本人技術者が筑後川改修の立案と設計を行い、1890(明治23)年に造られました。完成から100年以上経った現在もその役割を果たしていて、筑後川デ・レイケ堤とも言われています。

 ここで、1873(明治6)年から30年間も日本に滞在し、全国各地に数々の足跡を残したデ・レイケの業績をたどってみましょう。

デ・レイケ=国土交通省淀川河川事務所提供

デ・レイケ 暴れる淀川と向き合う

 河川の改修など治水と築港のため、オランダから最初の指導者(技師長)として1872(明治5)年に来日したファン・ドールンが、淀川改修のために名指しして呼んだ一人がデ・レイケでした。エッセル、チッセンら来日したオランダ人エリートチームの中では最下級の四等工師でしたが、地元の現場でたたき上げたデ・レイケの勤勉さと優秀さをドールンが評価しての抜擢でした。

 大阪市は、淀川をはじめ大きな河川と海に囲まれていて、市街地のほとんどが低地です。現在でも、大雨による河川氾濫、高潮、内水氾濫、津波には細心の警戒が必要です。

 当時、淀川の上流にある川は道路よりも高くて、道路が川の下をトンネルになって通る有り様でした。そうした川を「天井川てんじょうがわ」と言いますが、それが大阪の港にたくさんの砂がたまる元凶で、明治以前から淀川流域で頻発する洪水とともに悩みの種でした。

 デ・レイケは、淀川上流を調査して驚きました。乱伐が続き、水源地帯の山林が無惨に荒廃していたのです。デ・レイケはフランスの文献などヨーロッパの事例をとことん調べました。そして、オランダ式というよりも、日本の風土にあったやり方を模索していきます。河川改修の前に、まずは砂防工事が先決だと判断します。砂防とは、山地、河川、海岸などで土砂の崩壊・流出・移動を調節して防ぐことです。

 氾濫を繰り返す河川を治めるため、放水路や分流の工事を行うだけでなく、近代的な砂防工法を提唱します。その方法は、▼淀川流域の荒廃した山に稚松わかまつを斜面に植える▼斜面にわらをはさんで覆う▼木、石、砂でつくったせきを谷間に造るなどの土留め工を施し、斜面に芝を植え、石のダムを造るーーの3点でした。

 これは淀川だけでなく、木曽川、長良川にも及びます。デ・レイケの造った石積みの砂防ダムは、山の上流から川へ流れ出す土砂を防ぐためのものでした。そして、山林の樹木をむやみに切らないこと、植林と栽培を熱心に提案しました。

 「川を治めるものは、まず山を治めるべし」。この信念を持って実践していきました。そうして関西で腕を振るっていたデ・レイケは、ドールンやほかのオランダ人技術者が帰国後も日本に残り、全国的に工事を指導していったのです。

 そうした砂防堰堤えんていは現在でも全国各地に残っていて、一つの山に何基も造っています。それらは「デ・レイケ堰堤」とか「オランダ堰堤」と呼ばれています。

 例えば、群馬県の榛名山麓さんろくに300カ所以上あるといわれる砂防堰堤群は、デ・レイケの指導により内務省の技術者たちが整備し、「デ・レイケ堰堤」と呼ばれています。自然石を用いた24基の巨大堰堤が現存して、現在でも土砂の流出や山腹の崩壊防止に役立っているのです。それら自然石を用いたアーチ形状と、天端の縄たるみ形状の美しさから、2004(平成16)年度土木学会選奨土木遺産に認定されました。

デ・レイケが示した「科学の力」と「誠意」を忘れない

 デ・レイケは、明治政府が淀川水系の治山治水工事を開始した時期と重なる1873(明治6)年に31歳で来日し、京都、群馬、長野、岐阜、愛知、三重、徳島、長崎などの府県で砂防堰堤に関わり、全国の河川改修や港湾建設に尽力しました。

 淀川などの河川や港湾で腕を磨き、木曽川改修のため現地を訪れたのは、1878年のことでした。命がけの薩摩義士が解決できなかった宝暦治水ほうれきちすいの問題を、なぜ、デ・レイケらオランダ人技師たちは解くことができたのでしょうか。

 それは、日本人が明治以前に持ち得なかった「科学の力」でした。

 例えば、河川技術者のエッセルは、山地崩壊のメカニズム、科学技術を用いた理論的な対策を学んでいました。エッセルは、荒れた山地に砂防ダムを設計し、デ・レイケが施工することで、日本古来の経験工学に自然科学を持ち込んだのです。

 あるいは、川幅、流れの速さや量を科学的な算定方法で割り出し、「科学の力」で近代的な工事を行いました。川幅を狭く、川を深く、曲がった川を真っ直ぐにして、河口に流れを導く堤をつくりました。そして、洪水が横に流れないような設計の堤防にしました。それにはオランダ技師団による科学的な計算が行われて、土砂を伴う水の流動を「土砂水理学」として捉え、長年の困難を解決してみせたのです。

 「職業は神様が与えてくれた使命だ」と言っていたデ・レイケ。妹を、そして来日以来、ずっと支えてくれていた妻を亡くした悲しみにも耐えて、盆休みもひとり、木曽川を視察していたということです。近代的な砂防のパイオニアは、日本各地の山川を“治療”して回り、気がつくと二度の帰国をはさんで滞日30年にもなっていました。

 1903(明治36)年、オランダ技師団の中では最下級だったデ・レイケが帰国時、政府が贈った勲章はドールンより2階級上でした。誰もがその業績と献身を認めていたのです。

 日本の近代的な治水・砂防・港湾事業を献身的に指導したデ・レイケ像が愛知県愛西市の船頭平せんどうひら河川公園(国営木曽三川公園の一部)にあります。その台座には、「治水の恩人」と刻まれています。オランダから来た恩人の誠意を私たちは忘れません。
※メイン画像はライトアップされる筑後川昇開橋=2020年12月25日撮影

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