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【ニュースがわかる2024年5月号】巻頭特集は10代のための地政学入門

水浸しの地で洪水対策をした徳川家康

水を治める先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 【徳川家康編】 文・緒方英樹(理工図書株式会社取締役、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)

家康、江戸に入る

1590(天正18)年8月1日は、徳川家康が江戸に入城した日です。農家が新穀を取り入れ、豊作を祈る八朔(はっさく)の日でした。秀吉の命により、三河、駿河、遠江(とおとうみ)、甲斐、信濃という東海道の5カ国を召し上げられ、後北条氏が支配していた未開の関八州(武蔵、相模、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、安房(あわ)、常陸(ひたち)へ転封されたのでした。
入江の名残である日比谷濠は、かつて海に面していた。  江戸の「江」は、水が陸地に入り込んだ入江、「戸」は出入口の場所といった意味があります。入江の東側には半島状の江戸前島が海に突き出ていました。家康入府前の江戸湊は、江戸前島の西側に日比谷の入江という湾が近くまで入り込み、東側には旧石神井川の河口部があったといわれています。

なぜ、江戸の湿地を選んだのか

家康の目に映った江戸は、板ぶきの粗末な家々、かつては築城の名人・太田道灌(どうかん)が築き、北条家家臣のいた城はさびれ、外廻りには石垣もありません。江戸時代中期の兵学者・大道寺(だいどうじ)友山(ゆうざん)が著したとされる徳川家康説話集『岩淵夜話別集』第3巻第33話に関東入国の様子が記されています。 「東の平地の場所は何処も彼処も海の入り込んだ芦原であり、町屋や侍屋敷を十町迄も割付けられる様子では無く、一方西南の方は茫々と萱原が武蔵野へ続き何処が果てとも分らない」 満潮になれば海水が入り込み、潮が引けば、葦(あし)や萱(かや)などが生い茂る湿地帯であった様子が想像できます。到底、人が安心して住める土地ではなかったことでしょう。 家臣たちの不満は一気に沸騰しましたが、家康はこの地を領国経営の中心に据えたのです。なぜ、家康は、江戸という立地を選び、どのような将来性を見ていたのでしょうか。 江戸前島の東西に河口と湾、旧利根川の河口部を持つ地理的条件、つまりは、人やモノが集まりやすい場所である立地を知悉(ちしつ)していたのだと思われます。家康は江戸入府に先立って上水道設置を準備していました。新市街の飲み水を確保する上水道整備を重要視していたのです。 入り江や低湿地が多く、海に近いことから塩分が多く、井戸を掘っても良質な水を得られませんでいた。戦において水の大切さも痛感していたことでしょう。さらに何よりも、新しい都市づくりのための優先順位として上水設備を第一と考えていたと思われます。
水道橋から見た現在の神田川(左)。かつて、この橋の約100メートル下流に神田上水懸樋が設置されていた(右上)。現地には今、碑が建立されており、往時をしのばせる(右下)
JR水道橋駅東口(東京都千代田区)近くにある神田上水懸樋(かけひ)跡の案内文には、こう記されています。 「家康は、江戸入府に先んじて家臣を何度か江戸の地勢調査に出向かせていました。家臣の大久保忠行(通称・藤五郎)には、水源調査と上水道の見立てにあたらせました」
江戸を利根川の水害から守ることなどを目的に、利根川の流れを東に遷(うつ)す「利根川の東遷」と呼ばれる一大土木工事は1594(文禄3)年から始まった。利根川から分岐する江戸川(右)

利根川東遷とは何か

家康が江戸入府後、水の確保と同様に取り組んだのが洪水対策でした。利根川東遷と呼ばれる河川改修の目的は、大きく次の三つがありました。 ①江戸を利根川の水害から守ること②新田開発によって豊かな農地を生み出すこと③江戸城へモノを運び込む水路(運河)づくり、すなわち、舟運ネットワーク形成のための基盤づくり 日本の河川の長男として「坂東太郎」とも呼ばれる利根川は、日本三大河川の一つであり、日本最大の流域面積と日本第2位の長さをもつ日本有数の川です。この利根川は、およそ1000年前、その下流は広大な入り江で、江戸湾(現在の東京湾)に注いでいたとみられています。そして、家康が入府した頃の利根川は、関東平野を入り乱れながら暴れて南へ下り、荒川や入間川と合流して、下流では浅草川、隅田川と呼ばれて東京湾に注いでいたといいます。 そして、現在のような流路となる基礎づくりを整えたのが、家康の企画した利根川東遷です。その概要をひと口で言うなら、利根川の川筋を東へ移して渡良瀬川と合流させて、江戸湾から銚子へと流路を替えるという大規模な河川改修工事でした。 その過程では、堤防や農業用の用水路を造りました。特に、伊奈忠次・忠治親子ら伊奈一族の卓越した土木技術と活躍は、関八州の天領(幕府直轄地)の統治、利根川東遷事業に大きな役割を果たしました。このような大手術によって、洪水地帯は農耕地に変わっていき、江戸は太平洋へとつながり、舟運ネットワーク形成のための基盤となる水の道づくりが進んだのです。
JR静岡駅前にある徳川家康の銅像。家康は卓越した都市プランナーだった

都市プランナー家康の「水の道づくり」

運河や水路づくりで舟運を整備すると、江戸城周辺を埋め立てた城下町建設、街道や宿駅の整備、河川改修、築堤工事、灌漑(かんがい)工事、水田開発が矢継ぎ早に人海戦術で進められました。 家康は、こうした土木事業によって徳川幕府の本拠とする江戸を改造したのです。その骨格となったのは、江戸城を中心に濠と河川と運河を連環させた水の道づくりでした。東国の湿地帯を、水の道づくりでダイナミックに再生させるプランにより、世界的な水辺都市が出現したのです。その先頭を切った都市プランナーとして、土木事業家として徳川家康を高く評価したいと思います。
水辺都市である東京では水上バスによる観光も楽しめる。その礎は徳川家康が築いたといえる
家康の晩年、江戸の人口は10数万人に発展し、百万都市・江戸へ向かって歩みを始めていきました。そして現在、東京都内には100以上の河川が流れ、私たちの暮らしと密接な関わりを持ち続けています。(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ) ソーシャルアクションラボでは本記事をはじめ水害に関わる色々なコラムを掲載中。家康公についてもっと詳しく知りたいひとはこの2冊をおすすめします。※2作品とも、書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします。
「ニュースがわかる特別編」徳川家康がわかる 出版社:毎日新聞出版 定価:700円

大地を拓く 【著】緒方英樹 出版社:理工図書 定価:1980円