民衆を救った僧侶たち①

水を治める先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 【道登・道昭編】

文・緒方英樹(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)

多数の古文書に残る「霖雨」と「洪水」

『明治以前日本水害史年表』(高木勇夫)によると、奈良時代から平安時代にかけて「霖雨(りんう)大水」「連雨洪水」といった記録が多く、古来より水害は、日本人にとって身近で大きな心配事の一つであったようです。また、『続日本後記』によると、滝のような豪雨と強風、そして霖雨(長雨)が平安京を襲ったとの記述があります。現在に照らして言うなら、1カ月分の雨が1日で降ったり、その後も続いた長雨で都の人々がひたすら家屋の下で身を細め、おびえた様子がうかがえます。

 今から1200年ほど前の話です。古代の民間伝承に「神木を伐ると水害が起きる」という語り伝えがあったようです。これは、4~7世紀ごろに朝鮮・中国から日本に移住してきた渡来人たちのDNAと経験が広めた「森林と水との関係」への示唆かもしれません。例えば、古墳時代以来、日本各地にネットワークを拡大していた秦人(はだびと)と呼ばれた渡来人の影響が土木工事にも見えます。

 日本で初めての河川工事とされるのは、記録に残るものとして大阪府寝屋川市付近に築かれた茨田堤(まんだのつつみ)が知られます。大雨による洪水や高潮対策のため、313年頃から仁徳天皇が淀川工事に取りかかり、日本書紀によると「河内平野における水害を防ぎ、開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤の築造を行った」と記されています。築堤工事では、どうしても二つの堤が切れてしまうため、秦人の優れた土木技術を用いて難工事を完成させています。

寺を出て、民衆の苦難に立ち向かった僧侶たち

「世の中を 憂しとやさしと おもへども 飛びたちかねつ 鳥にしあらねば」

 奈良時代初期、万葉集巻第五に収められた山上憶良の貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)です。私たちはどんなに日々がつらくても、鳥ではないのでどこにも逃げられないという切羽詰(せっぱつ)まった民衆の心を詠んでいます。民衆とは、国の安泰という目的のために翻弄された農民たちのことです。

538年に仏教が伝来すると、聖徳太子の指示であちこちに寺が建てられるようになります。そして、大化の改新で国に権力が集まるようになると、寺や宮殿は華美をきわめるようになるのですが、一方で、民衆には厳しい税が課せられました。租(そ)〔米〕・庸(よう)〔労役または布〕・調(ちょう)〔布または産物〕という形で国に納める税の負担は、民の生活を苦しめます。労役で働く人は全国から集められた農民です。天皇のいる宮殿の建設、都のまちづくり、防人(軍隊)の通る道づくりなど土木工事に駆り出される農民たちはすっかり疲弊しきっていました。役人は無税。寺院で国家のために祈る僧には、特別の手当てが与えられていました。


 寺の外で民が苦しんでいるのに、寺にいていいのか。外に出て助けることこそ仏の道ではないのか。そう決心して、民衆の中に飛び込んだ僧が現れました。


 646年、奈良元興寺(がんごうじ)の僧・道登(どうとう)は、洪水で人馬が流されて困っていたため、京都・宇治川に宇治橋を架けたと「日本霊異記」という説話集にあります。「続日本紀」には、僧・道昭(どうしょう)が架け直したとも記されています。飛鳥時代にかけられた日本最古の橋と言われ、「瀬田の唐橋」、「山崎橋」と共に、日本三古橋の一つです。架橋されて後、奈良・京都・滋賀を結ぶ水陸交通の要衝となりました。(※写真は日本最古の堤防と推定される「茨田堤」の一部=大阪府門真市宮野町で)

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