【ニュースがわかる2024年10月号】巻頭特集は「発明が世界を変える」

復帰50年 今もつめあとが残る沖縄【ニュース知りたいんジャー】

50年前の1972年5月15日、沖縄はアメリカの支配下から日本のもとに戻りました。沖縄のあゆみを知りたいんジャーが調べました。【長岡平助】


 ◇沖縄ってどんなところ?


 沖縄は日本最南端の県です。九州と台湾の間の海にある約160の島々からなり、このうち沖縄本島、宮古島など47の島に人が住んでいます。
 黒潮という暖かい海の流れの影響で、一年を通して温暖で、雨が多いのが特徴です。また台風の通り道にあたり、年平均で7回ほど台風が近づきます。
 沖縄はかつて琉球という国でした。1429年に尚巴志が、各地の有力者を一つにまとめました。国の中心は現在の那覇市にある首里城でした。琉球は当時、東アジアの中心であった中国の王朝に朝貢(貢ぎ物を差し出すこと)し、その影響の下、アジアの国々と貿易して栄え、独自の文化を育みました。
 1609年に琉球は、薩摩藩(現在の鹿児島県など)に攻められました。日本で江戸幕府が開かれたころです。琉球は薩摩藩に支配される一方、それまでと同じように中国の王朝の影響下にもありました。
 江戸幕府が倒れ、明治時代になると琉球王国はなくなり沖縄県になりました。


 ◇戦争で大きな被害を受けたんだよね?


 明治時代以降、日本は東アジアに支配の手を伸ばしました。1937年からは中国と戦争を始めました。そして41年に中国を応援していたアメリカなどと戦争を始めました。日本と親しくしていたドイツは39年からヨーロッパで戦争をしていて、これらを第二次世界大戦といいます。
 日本とアメリカの戦いは当初、日本が優勢でしたが、豊かな資源や戦力に支えられたアメリカが次第に日本を圧倒しました。日本はアメリカに上陸される「本土決戦」に備え、沖縄に「防波堤」の役目を負わせました。アメリカは45年4月に約55万人の大軍で沖縄本島に上陸。日本軍は壕(敵を防ぐ穴や溝)にひそんで戦いを長引かせる持久作戦をとりましたが、6月に組織的な戦いが終わり、沖縄はアメリカの手に落ちました。住民を巻き込んだ激しい地上戦で大きな犠牲を払ったことから、「沖縄は本土の『捨て石』になった」ともいわれます。
 沖縄県の推計によると、戦死者数は全体で約20万人。内訳は沖縄県民約12万人、沖縄以外が出身の日本軍人が約6万人、アメリカ軍人が約1万人です。当時の沖縄県民は50万人ほどで、県民の約4分の1が犠牲になりました。


 ◇戦後、日本じゃなくなったの?


 1945年8月に日本が第二次世界大戦に負けると、日本はアメリカを中心とする連合国軍に支配されました。そのころ、自由な経済を掲げるアメリカと、工場などの生産手段を国が管理する旧ソ連(現在のロシアなど)の対立が始まりました。冷戦といいます。その中で、沖縄はアメリカの基地として利用するため、日本とは分けて支配する方針がとられました。50年に琉球列島アメリカ民政府(USCAR)が置かれました。
 51年に、日本とアメリカなど連合国との間で「サンフランシスコ平和条約」という第二次世界大戦を終わらせる条約が結ばれ、52年に日本は独立国としての地位を取り戻しました。このとき、沖縄は引き続きアメリカの支配下に置かれることが正式に決まりました。USCARの下に琉球政府という、沖縄の人たちが自分で沖縄を治めるための組織がありましたが、最終的な決定権はUSCARが握っていました。
 沖縄では軍事が優先され、アメリカは住民の土地を無理やり取り上げて基地を造りました。「銃剣とブルドーザー」と表現されるほど厳しいものでした。沖縄は「太平洋の要石(キーストーン)」と呼ばれ、アメリカにとって重要な軍事拠点と位置づけられました。またアメリカの支配下では、アメリカ軍が起こした事故やアメリカ軍人などによる犯罪があっても、立場の弱い沖縄の人たちにとって不利な扱いが少なくありませんでした。


 ◇どうして返されたの?


 アメリカ支配下の沖縄では、日本に復帰したいという意見が多くありました。アメリカは当初、基地を持ち続けることと沖縄を治める権利は分けられないと考えていました。しかし、復帰の声が強くなると、それまでのやりかたを見直すようになりました。
 一方で日本にとって、沖縄を返してもらうことは長年の課題でした。1965年に戦後初めて、現職の内閣総理大臣として佐藤栄作が沖縄を訪れました。沖縄を返す交渉が本格的に始まり、69年に当時のアメリカのニクソン大統領と佐藤総理大臣との間で、72年中に沖縄が日本に返されることが決まりました。
 日本に返されるにあたり、日本とアメリカの間には「核抜き、本土並み」という合意があるとされました。「核抜き」は日本が掲げる「持たず、つくらず、持ち込ませず」という核兵器に対する「非核三原則」のうち、「持ち込ませず」を沖縄でも貫くというものです。しかし後に、「何かあったとき、アメリカは(沖縄に)核を持ち込める」という秘密の約束があったことが分かりました。
 また「本土並み」は、日本の他の都道府県と同じように沖縄も扱われるという意味です。しかし沖縄のアメリカ軍の基地は、その後も日本とアメリカが結ぶ日米安全保障条約にもとづいて使われ続け、日本の国土面積の約0・6%に過ぎない沖縄に、日本に置かれたアメリカ軍基地の7割ほどが集中する状況が今も続いています。


 ◇復帰後も問題は残っているの?


 アメリカ軍機や兵士などによる事件・事故が後を絶たず、住民を悩ませています。特に普天間飛行場(宜野湾市)は街の真ん中にあって、「世界一危険な飛行場」とも呼ばれます。日本に返されることが1996年に決まり、沖縄県の名護市辺野古の沿岸部を埋め立て、滑走路や軍港を造る計画が進んでいます。しかし埋め立て予定の海域に軟らかく弱い地盤が見つかり、移設時期は目標の2022年度から「30年代」にずれ込み、工事にかかるお金はもとの2・7倍の約9300億円にふくらみそうです。19年の県民投票では、埋め立て反対が7割を超えましたが、日本政府もアメリカ政府も、辺野古への移設がただ一つの解決策としています。
 また沖縄が日本に戻ったとき、アメリカの支配下で軍事優先だった沖縄に対し、同じころ経済的に大きく発展した日本の他の都道府県とは、経済的な差がありました。そのため日本に返された後から、さまざまな経済対策がとられたものの、今も県民1人あたりの収入は全国でも最低の水準で、全国平均の7割ほどに過ぎません。若い人の失業率が全国平均より高く、相対的貧困と呼ばれる貧しい状況にある子どもの割合も多くなっています。大学進学率も高くありません。
 観光や建設などの産業はあるものの、地理的な課題もあって、ほかの産業が大きく育っていないことが背景にあると考えられています。(2022年05月11日掲載毎日小学生新聞より)