今年の8月15日がは80回目の終戦記念日。がまんすることが多かった戦争の時代。子どもたちはどのように暮らしていたのでしょう。過ちをくり返さないため、この夏、80年前のこと、調べてみませんか。(「Newsがわかる2025年8月号」より)
日本は1937年、中国大陸への進出を図って日中戦争を始めます。アメリカなどと戦う太平洋戦争(1941年〜)へと拡大しますが、1945年8月に敗れます。
この間の日本は、軍国主義を強く打ち出しました。戦争に勝つことを何よりも優先する考え方です。当時の日本の人口は約7200万人。その3割以上を占めた15歳未満の子どもたちにも大きな影響を与えました。
戦争で使うものを作るため、国民はぜいたくをせず、節約して暮らす「質素倹約」を強いられました。武器を作る金属が不足すると、家や学校で使っていたやかんやストーブなどが国に取り上げられました。
戦争が長引くと、ものの不足は深刻になり、コメや砂糖、野菜や衣服などは国が決めた量しか買えない「配給制」になりました。空から爆弾が降り注ぐ空襲が激しくなると、厳しい生活に耐えてきた国民が真っ先に犠牲になりました。
1945年・終戦までの主なできごと
3月10日 | 東京大空襲 |
4月 | 沖縄本島にアメリカ軍上陸 |
8月6日 | 広島に原爆投下 |
8月9日 | 長崎に原爆投下 |
8月15日 | 終戦 |
◆代用食 ミカンの皮や野草まで
コメが不足すると、代わりに小麦粉で作った団子やイモなどが主食の「代用食」になりました。さらに、サツマイモのつるやミカンの皮、野草なども「調理法しだいで食べられる」と紹介され、国民は栄養不足に苦しみました。


現在の小学校にあたる「尋常小学校」は1941年4月、「国民学校」に改められました。初等科6年、高等科2年の8年制で、子どもたちに軍国主義を教え込むのが大きな目的でした。
儀式や団体行動が重視され、国に尽くす心を育てたり、体を鍛えたりする授業内容が増えました。「少国民」と呼ばれた子どもたちは将来、日本を守ることを期待されたのです。
戦争によって働く大人が減ると、国は主に12歳以上の子どもたちに、勉強を中断して工場や農村で働くよう命令しました。働いている時の空襲や事故で亡くなる生徒もいました。
戦争が激しさを増した1943年には、それまで兵隊になることが延期されていた当時の大学生や高校生、専門学校生たちも軍隊に入らざるを得なくなりました。国民学校でも、兵隊になるための基本的な訓練が行われました。


子どもたちの遊びにも軍国主義は大きく影響しました。男の子の間で人気だったのは、兵隊ごっこや、飛行機、戦車などのおもちゃを使った遊びで、女の子の間ではお手玉やままごとでした。
ものが不足し始めると、金属製のおもちゃは木や紙で作られるようになりました。雑誌やマンガは戦争ものが増え、その中での言葉遣いや表現は、戦争に反対するものでないか国が厳しくチェックしました。
◆雑誌も戦争一色
子どもたちに人気があった雑誌に1931年から連載されたマンガ「のらくろ」は、野良犬の「のらくろ」が猛犬連隊という犬の軍隊で活躍する物語。失敗しながらも明るく楽しく出世していく姿が親しまれました。
しかし、太平洋戦争が始まった1941年に、国が「印刷紙の節約」を理由に連載中止を命令。再開したのは戦後でした。


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