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土佐・治水の歴史①

水を治める先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 【山内一豊編】

文・緒方英樹(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)

 カツオの一本釣りで有名な高知県。太平洋に面した全長約713㌔にも及ぶ海岸線から海の国と思われがちですが、実は東西に連なる山地率89%の山国で、東から奈半利(なはり)川、物部(ものべ)川、仁淀川、四万十川など四国山地に源を発する大河が東から南へ多く流れています。それら豊かな清流の恵みは、時として大きな水害をもたらしていました。

 そうした自然災害に備える治水の歴史をたどると、戦国時代の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)から子の盛親に至る長宗我部時代25年間、そして関ヶ原の戦い後に入国した山内一豊の城下町づくり、さらに江戸時代初期に活躍した天才的土木家・野中兼山にたどりつきます。

城下町を洪水から守る、土佐藩による水防

 関ヶ原の戦い後、山内一豊は1601(慶長6)年、長宗我部盛親の居城だった浦戸城に入城します。そして、廃城となっていた大高坂山城(おおたかさやまじょう)跡に統治の中心拠点として高知城を築城、城を河中山城(こうちやまじょう)、城下町の名を河中(こうち)と命名します。現在の県名である「高知」の由来です。

 河中山城は、高知平野の中心に位置していましたが、北に鏡川、南に江ノ口川という二つの川に挟まれた場所にありました。そのため土佐藩は、高知城下を度重なる洪水から守るため、堀や堤防の整備と水防の充実に腐心します。その城下町整備は、二代藩主・忠義の時代まで続きました。

 一豊は、洪水対策として、長宗我部盛親と同様に城下町の周辺に高い堤防を築き、渕(水深が深い場所)を埋めていきます。一豊はさらに、国分川や舟入川など河川に霞堤や越流堤をつくって洪水を調節するなど城下町の水害対策を行っていたことが、四国地方の歴史が書かれた『南路志』(1813年)からうかがうことができます。

 土佐藩の水防対策で、今に教訓を残すものとして1672(寛文12)年に始まったという「水丁場(みずちょうば)」があります。築いた堤防には、それぞれ受け持ち区域(水丁場)を定め水防体制を取っていたというのです。持ち場を示す標柱を建て、増水状態を確認しながら、その程度に応じて出動の人数を決めて、出水時には武士、町人らが協力して法螺(ほら)貝を吹き鳴らしながら洪水の侵入を防いだということです。この水防の教訓は、現在の消防団など自治的水防組織の水防活動に活かされています。

 それぞれ受け持ちの区域である水丁場の境界を示す標柱が鏡川に残されています。高知市鷹匠町にある標柱の看板には、「水丁場には、目盛りをつけた標本も建てられており、これで増水状態を確認しながら、その程度に応じて、出勤の人数を決めていた」とあります。※写真は桂浜(手前)と浦戸湾。

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