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【ニュースがわかる2024年5月号】巻頭特集は10代のための地政学入門

気宇壮大な土木技術者の顔を持っていた豊臣秀吉②

水を治める先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 【豊臣秀吉編②】

文・緒方英樹(理工図書株式会社顧問、土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)※①はこちら

土木力で難攻不落の城を落とす

 戦国時代、土木の仕事は普請(ふしん)と呼ばれていました。秀吉は、普請を戦に活用して、戦わずに勝つ合理的な作戦が敵味方の舌を巻いたのです。その一つが、水攻めでした。

 本能寺の変が起きたちょうどその頃、秀吉は、備中(岡山県西部)に出陣して高松城水攻めの真最中でした。高松城は、深い田や沼の中に囲まれた平地の平城(ひらじろ)で水面との比高がわずか4㍍しかない難攻不落、要害の城でした。城を取り囲んだものの秀吉は難渋します。そして、降り続く雨。梅雨前線の停滞した6月でした。

 この雨を秀吉は利用しました。地元農民に一俵二百文、米一升ですばやく土俵を集め、10日ほどで城の西南に土手を築いて足守川をせき止めます。秀吉は梅雨前線を読み、高松城の側にダム堤防を造って、水中に城を孤立させる水攻めを決行。その参謀は、軍師と呼ばれる黒田官兵衛でした。

 工事は柵で目隠しされていたため城中からは何をしているのかと首をひねっていたところ、秀吉はやおら堤を切って、たまった水を城の方へ流し込みます。みるみる城は湖に浮かぶ小島のように孤立して、その約1カ月後、城主・清水宗治は秀吉と和議を結んで自刃。秀吉は軍を引き揚げます。本能寺の変で信長が果てた直後のことでした。現在、秀吉の築いた築堤跡は国指定史跡となり、忠誠と地域民のために潔く身を捨てた宗治の遺徳はいまなお讃えられています。

総合的なまちづくりと治水

 人やモノを動かすプロデュースや、地勢や天候など自然を読む土木技術を身につけた秀吉は、天下を統一すると、ダイナミックな国土総合開発を行うようになります。まず秀吉が本拠地としたのは、淀川の河口近くに築いた大坂城です。30国の大名と1日3万人の人員、3000艘分の資材を投入したとも言われる大坂城。日本の中心であることを天下に知らしめました。

 大坂のまちづくりでは、淀川の堤防を連続的に補強して堤(文禄堤)を築き、その堤防上は大坂と京都を結ぶ京街道としました。町中で低い土地には掘をめぐらせて排水路や舟運に活用しました。この時から、後に「天下の台所」と言われるようになる大阪の都市整備が始まり、徳川時代へ引き継がれていったのです。

 秀吉は関白になると京都に聚楽第(じゅらくだい)を、太閤の時には伏見城をつくり、城の周りのまちづくりでは、独創的な改造を行っています。公家町、武家町、寺町など用途別にゾーニング(地域の区分け)し、その背後を御土居(おどい)という土塁で洛中と洛外に仕分けして縁どり、外敵に備える防塁であると同時に、御土居には洛中を鴨川の洪水から市街を守る堤防の役目も担わせました。京都の中心部を大きな土塁と堀で囲んだ都市改造でした。

巨椋(おぐら)池には大きな堤防を築き、伏見城と城下町を洪水から守りました。さらに、宇治橋を撤収して、巨椋池の真ん中には堤防(太閤堤)を造って、奈良へ行く道を整備したのです。

 このように、秀吉は、治水、利水、まちづくり、交通網の整備など総合的な都市計画によって人やモノの流れまで変えていきました。土木技術者として眺めた秀吉像は、実に気宇壮大です。そして、秀吉に仕えていた加藤清正や佐々成政らもまた、その後、各地域に分散して数々の治水事業を行っていくのです。※写真は「高松城水攻め」ののぼりが立つ高松城址公園。夏にはショウブやハスの花が咲く=岡山市北区高松で

ソーシャルアクションラボでは本記事をはじめ水害に関わる色々なコラムを掲載中。