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沖縄戦から79年【ニュース知りたいんジャー】

沖縄県は23日、「慰霊の日」を迎えました。太平洋戦争末期の1945年3~6月にあった沖縄戦で、旧日本軍がアメリカ軍に負けて、組織的な戦いが終わったとされる日です。戦争で亡くなった人の霊を慰め、平和を祈ります。沖縄戦で何があったのでしょうか。【真田祐里】


 ◇どんな戦争だったの?


 沖縄戦は、国内で唯一、住民を巻き込んだ激しい地上戦でした。
 1945年3月26日、アメリカ軍が沖縄本島の西側にある慶良間諸島に上陸しました。ここから約3か月におよぶ沖縄戦が始まります。兵力は、日本軍が約10万人、アメリカ軍は約55万人という圧倒的な差でした。
 アメリカ軍は軍艦から射撃したり、飛行機から爆弾を落としたりして日本軍を追い込みました。鉄の弾丸が嵐のように飛び交ったことから、その様子は「鉄の暴風」と呼ばれます。爆弾などの力で地形が変わってしまうほどでした。
 日本軍は、徐々に沖縄本島の南部へ追い詰められます。そして6月23日に牛島満司令官が自決(自ら死ぬこと)し、組織的な戦いは終わりました。しかし、その後も残された日本兵の抵抗は続きます。沖縄の日本軍が降伏文書に署名したのは9月7日のことでした。


 ◇どうして沖縄が戦場になったの?


 1941年12月、日本軍がアメリカ・ハワイ島の真珠湾を攻撃するなどして、アメリカやイギリスを中心とする連合国との太平洋戦争が始まりました。
 日本軍は、フィリピンやシンガポールなどを占領し、南太平洋の広い範囲に支配地域を広げました。しかし、42年6月のミッドウェー海戦でアメリカ軍に敗れると、状況が一転します。日本軍は太平洋の島々の基地を失い、アメリカ軍は日本へと迫りました。
 そんな中、アメリカ軍は日本の本土(本州など)へ進攻するための前線基地として、沖縄を占領しようとしました。一方、日本軍は沖縄でアメリカ軍をできるだけ食い止めて、本土への進攻を遅らせようとしたのです。


 ◇戦後も苦しみは続いたよ

 日本は、1945年8月15日に終戦を発表し、アメリカなどの連合国に占領されました。51年のサンフランシスコ平和条約によって日本は独立しましたが、沖縄はアメリカの統治下に置かれました。
 アメリカは、沖縄の人たちの土地を無理やり奪って軍の基地を造りました。沖縄の人たちの人権も軽んじられます。アメリカ兵による交通事故で沖縄の人が亡くなっても、アメリカ兵が無罪になったこともありました。小学校にアメリカ軍の飛行機が墜落して児童が犠牲になるなど、基地がもたらした被害が相次ぎ、本土への復帰運動が盛んになりました。

米軍ジェット機墜落事故で亡くなった宮森小の児童らを悼む「仲良し地蔵」の前に手向けられた花束=沖縄県うるま市で


 72年5月15日、沖縄は日本に復帰しましたが、基地はなくならず残ったので、沖縄の人たちはがっかりしました。今なお、日本にあるアメリカ軍関係の施設の7割は沖縄に集中していて、アメリカ軍機による事故や騒音などに悩まされ続けています。


 ◇多くの住民が犠牲に


 日本側の犠牲者は約20万人(推計)でしたが、このうち住民は9万4000人もいました。沖縄出身の兵士と合わせると、県民12万2000人が亡くなりました。当時の県民は約50万人だったので、4人に1人が犠牲になったことになります。一方、アメリカ軍人は約1万2500人が亡くなりました。
 犠牲者は、戦闘や空襲によるものだけではありません。多くの住民は、沖縄に数多くある「ガマ」と呼ばれる洞窟へ逃げましたが、後から来た日本軍に追い出されたり、自決を強制されたりしました。アメリカ軍に捕まることを恐れ、家族や住民がまとまって命を絶つ集団自決もありました。

沖縄・チビチリガマ 慰霊祭 手を合わせる遺族ら 


 ◇子どもも巻き込まれたよ

 沖縄戦が始まる前、日本政府は沖縄から子どもや女性、高齢者たちを疎開(移動)させようとしました。1944年8月に疎開者を乗せて九州へ向かった船「対馬丸」は、アメリカ軍の攻撃を受けて沈没。784人の児童を含む1484人が亡くなりました。

学童疎開船「対馬丸」の悲劇 対馬丸記念館にはまだあどけない顔の遺影が並ぶ


 また、日本軍は足りない兵力を補うため、14~19歳の男子生徒と15~19歳の女子生徒を「学徒隊」として沖縄戦に参加させました。
 特に、女子生徒が参加した「ひめゆり学徒隊」が有名です。沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒222人、教師18人の通称です。丘の斜面の横穴につくられた陸軍病院で、けがをした兵士の看護をしました。砲弾が飛び交う中、横穴の外で水くみをしたり、遺体を埋葬したりといった危険な作業もありました。生徒と教師の計136人が亡くなりました。終戦の翌年、ひめゆり学徒隊などの犠牲者たちの慰霊碑「ひめゆりの塔」が造られました。
 沖縄には、このほかにも沖縄戦を伝える戦争遺跡が数多く残っています。(2024年06月26日毎日小学生新聞より)