8月15日は、日本の78回目の終戦記念日です。日本は日中戦争から太平洋戦争へと突き進み、多くの犠牲者を出しました。ヨーロッパでの戦争と合わせて第二次世界大戦といいます。二度と同じ悲劇を繰り返さないため、過去の歴史を知り、平和について考えましょう。【篠口純子】
◇なぜ戦争が始まったの?
1929年、アメリカ・ニューヨークで株が大暴落し、世界的に景気が悪くなる世界恐慌が始まりました。日本も不景気になり、豊かな資源がある中国東北部(満州)を支配しようとしました。日本軍は南満州鉄道の線路を爆破し、中国軍のしわざにして戦いをしかけました。満州を占領して満州国を作りますが、当時の国際連盟は認めませんでした。このため、日本は国際連盟を脱退し、さらに侵略を図り、37年に日中戦争を始めます。中国を応援するアメリカやイギリスと対立を深めました。
ヨーロッパでは、ヒトラー率いるドイツがオーストリアを併合し、イギリスやフランスと対立しました。ドイツは39年、ポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まります。日本、ドイツ、イタリアは三国同盟を結びました。41年12月8日、日本軍はイギリス領のマレー半島に上陸するとともに、アメリカ・ハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まりました。
◇日本の被害は?
戦争末期の1945年、日本は大きな被害を受けました。3月10日にアメリカのB29爆撃機が東京に焼夷弾を投下し、約10万人が亡くなりました。沖縄では3月末から6月末に激しい地上戦があり、県民約12万人が亡くなったとされます。
8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾が落とされます。12月末までに広島で約14万人、長崎で約7万4000人が亡くなりました。日本は8月14日、降伏のためにポツダム宣言を受け入れ、昭和天皇が翌日の15日、ラジオで戦争が終わることを国民に伝えました。日中戦争からの日本人の犠牲者は310万人に達しました。
◇子どもたちはどうしてたの?
戦争が激しくなると、主な都市は空襲を受けました。被害を避けるため、都市部の子どもたちが農村部へ移る疎開が始まりました。親戚を頼る「縁故疎開」と、学校ごとに集団で移動する「学童疎開」がありました。約40万人の子どもたちが親元を離れ、寺や旅館などで集団生活を送りました。食糧難による空腹、ノミやシラミの被害、農作業の手伝いなど大変な思いをしました。
44年8月には、沖縄を出航した学童疎開船「対馬丸」がアメリカ軍の攻撃を受けて沈没。乗船者約1800人のうち、800人近い子どもを含む約1500人が犠牲になりました。
◇国のはざまで苦しんだ人も
満州には多くの日本人が住んでいました。旧ソ連が満州に侵攻し、混乱の中で親と生き別れ、中国人に育てられた子どもを中国残留孤児といいます。1972年に中国との国交が正常化すると調査が始まりました。残留孤児約2800人のうち、身元が分かったのは約1300人。日本に帰国しても日本語が分からず、生活に苦労しました。
戦時中、アメリカに住む日系2世はアメリカ国籍を持ちながら「敵性外国人」と呼ばれ、差別を受けました。アメリカ全土で12万人以上が強制収容所に入れられました。レーガン大統領(当時)は88年、強制収容について「重大な誤りだった」と謝罪しました。
◇戦争孤児って?
戦争で親を亡くした子どもたち(戦争孤児)は、12万人以上いたといわれます。東京では駅の地下道などで寝起きし、残飯をあさったり、物乞いや盗みをしたりして飢えをしのぎました。親戚に引き取られても、じゃま者扱いされることも多かったそうです。
満州や樺太・千島列島などにいた日本兵や住民は、旧ソ連(今のロシアなど)軍に捕まり、シベリアなどの収容所に入れられました。厳しい寒さの中、満足な食事も与えられず、木材の伐採など過酷な労働を強いられました。2年から10年以上も留め置かれ、捕まった約57万5000人のうち、約5万5000人が亡くなったとされます。(2023年08月16日毎日小学生新聞より)