【ニュースがわかる2024年6月号】巻頭特集は地震大国ニッポン 被害を減らすために

讃岐の禹王(うおう)・西嶋八兵衛

水を治める先人たちの決意と熱意、技術に学ぶ 【西嶋八兵衛編】

文・緒方英樹(土木学会土木広報センター土木リテラシー促進グループ)

空海ゆかりの満濃池の歴史

 今は昔、讃岐(香川県)の満濃池が万能池といわれていたころ、その海のような池には「龍が棲(す)んでいる」と言われていました。およそ伝説には民の願いが込められていることが多いものです。この龍は、農民にとって、雲を呼び、雨をもたらす祈りでもあったことでしょう。

 長い間、雨が降らずに水がなくなることを「日照り」と言います。また、日照りが続くと水不足となることを干ばつと言い、一方で、大雨になると急激に川や沢の水量が増して、鉄砲水が民家や田畑を押し流すなど甚大な被害を引き起こします。

 「旱天(かんてん)五日に及べば水湿の潤いなく霖雨(りんう)二日に及べば洪水の恐れあり」

 かねてより讃岐地方は雨が少なく、大きな川もないため、日照りが続くと旱天、何日も雨が降り続くと霖雨に繰り返し見舞われていました。

 困り果てた民は、洪水の後にできた大きな水たまりを土手で囲い、池にしたのでしょう。初めて満濃池が造られたのは、今から1320年ほど前の大宝年間(700~704年)でした。水不足に備え、ためておく必要があったのです。

 そして、ためた水は漏らしたり、あふれさせることなく、適量を必要な時期に給水しなくてはならないのですが、それがとても難しい。満濃池も決壊を繰り返し、修築するための高度な土木技術が求められ、821(弘仁12)年、大陸からの知恵と工夫で再築事業をしたのが空海でした。

 空海の改修からおよそ450年がたった江戸時代のことです。地域の農民たちに恩恵をもたらした満濃池は、その後の大洪水で何度も破れ、堤防も老朽化。修理されることもなく放置され、池の底には集落(池内村)ができるあり様でした。

 戦国の戦乱も終わり、世は天下泰平、3代将軍、徳川家光の時代のことです。1625(寛永2)年、讃岐生駒藩に請われてやってきたのが、大坂冬の陣、夏の陣で戦功をたてた武人の西嶋八兵衛でした。戦国の若武者は、なぜ、讃岐に呼ばれたのか。八兵衛は、一体何者なのでしょうか。

藤堂高虎が育てた土木の達人

 西嶋之友(ゆきとも)、通称、八兵衛。慶長元(1596)年、遠江(とおとうみ)の浜松に生まれた八兵衛は、17歳で伊勢(三重県)の藤堂高虎に仕えました。高虎と言えば、築城の名人として知られています。

 高虎は初めて仕えた主君、浅井(あざい)長政のもとで、姉川の戦いに足軽として初めて出陣し、豊臣秀長の下では和歌山城や今治城を築き、秀吉や徳川家康の下では江戸城・丹波亀山城など多くの城を築いています。八兵衛は、この高虎の下で城普請や見積もり、設計を体得して土木工事を学び、京都二条城の修築では、23歳の八兵衛に建物の位置を決める縄張りを任せられるまでになっていました。

 その八兵衛が急きょ、讃岐の生駒藩へ出向となります。生駒藩は3代目が急死して、4代目はわずか11歳の高俊でした。高虎の孫にあたりました。高虎は、藩主交代という厄介な政治手続きを26歳の八兵衛に任せたのです。

 見事にに大役を果たした八兵衛は安堵して伊勢に帰ります。ところが、生駒藩は八兵衛の有能さを見込んだのです。高虎に、ぜひ八兵衛を欲しいと懇願します。讃岐は救世主を待っていました。はるか昔、讃岐の農民がこぞって空海を待ち焦がれたように、水害から地域を守ってくれる土木の達人を待っていたのです。

 しかし、八兵衛が入国した1625(寛永2)年の秋、讃岐で大地震がありました。翌年には大暴風雨と大干ばつ、3カ月の長い日照りで作物全滅、餓死者も発生しました。その翌年の27年には大地震、暴風雨による風水害、収穫皆無、といった散々たる記録が残っています。

 世は太平ながら、讃岐の人たちは苦しんでいました。八兵衛は、そんな讃岐へ、客臣として生駒藩普請奉行の任に就いたのでした。

八兵衛のリベンジ

 八兵衛が、まず着手したのは満濃池の再整備でした。彼の前には、伝説の人・空海の存在が大きく立ちはだかっていたことでしょう。当時の設計を解明すべく、地元旧家に残る家記を丹念に検討し、周到な調査と準備で再整備していきました。

 満濃池をかさ上げする工事は3年足らずで完成し、3郡44村に水が引かれました。さらに、老朽化した池の修築や新設、新田開発、湿地改良を行い、米の収穫高は一気に増えました。

 今日、香川県内で名のあるため池90余りをわずか数年で手がけた八兵衛は、まさにため池の達人と言えるでしょう。また、高松市香川町川東下にある龍満池は、讃岐の国を襲った大干ばつの翌年、1627(寛永4)年に八兵衛により築造されたと言われています。

讃岐の禹王

 中国の伝説に、暴れる黄河を鎮め「治水の神様」と呼ばれた禹王(うおう)という人物がいます。禹は、今から4000年前の中国で、黄河の氾濫を治めた治水の大聖人として知られていました。

 八兵衛は「讃岐の禹王」と呼ばれているのですが、そこには一つのドラマがあります。

 讃岐のため池づくりのほかに、八兵衛が手がけた大きな仕事は天井川(土砂がたまって川床が周りの平野より高い川)の改修です。石清尾山の東と西の両方に分かれて流れていた香東川の流れを一本化する付け替え工事でした。

 高松市内であふれる天井川の流れをせき止め、一つにまとめる大工事でした。ところが、藩の財政は窮迫していました。そこで八兵衛は、私費まで投じて完成にこぎつけました。この時、八兵衛は中国の治水の神様・禹王にあやかって石碑を記し、安全を願ったというのです。この石碑は1913(大正2)年に行われた堤防修復工事で偶然発見されました。石碑は今、高松市の栗林公園内にあります。

 青春のほとんどを讃岐の地域開発に尽くした八兵衛は、役目を終えて伊勢に帰ります。そこでも八兵衛は、干ばつに苦しむ農民のため、約13㌔の用水を開削したり、ため池をつくっています。食事をする時間を惜しみ、いり豆を噛(か)みながら仕事をする熱心さに人々は打たれたといいます。技術だけでなく、人徳を併せ持つ土木技術者でした。

 現在、讃岐平野には大小1万4000カ所を超えるため池があるそうです。そこは、古来より受け継がれた貴重な農業用水源であるだけでなく、希少な淡水魚や水生昆虫、植物が生息する「生きとし生けるもの」のユートピアでもあります。

「国営讃岐まんのう公園」で開催されたウインターファンタジーグランドイルミネーションが美しい

 その原初ともいえる満濃池のほとりにある「国営讃岐まんのう公園」では、毎年11月末から年明けにかけて色とりどりのイルミネーションによるイベント「ウインターファンタジー」が行われ、約60万球のLED電球などが光り輝いています。※メイン画像はかんがい面積3000ヘクタール、日本最大級の貯水量を誇る満濃池。

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