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あきらめの悪いランナーが銅メダリストになるまで(前編)

コロナ禍の影響で開催が1年延期された東京パラリンピック2020。その最終日となった2021年9月5日に実施された男子マラソンの上肢障害T46クラスで、日本代表の永田務(ながた つとむ)選手は見事銅メダルを獲得しました。

しかし、その永田選手がゴール直後のインタビューで発した第一声は、「こわかったです」というものでした。

37歳という年齢でパラリンピックに初出場し、4位に2分以上の差をつけて3位に入賞、銅メダルを獲得するという輝かしい成績を達成したにもかかわらず、永田選手はなぜ「こわかった」と語ったのでしょうか。

永田選手は1984年2月20日に新潟県の北部に位置する村上市で生まれました。ちなみに同市は、2022年に開催された北京冬季オリンピックのスノーボード男子ハーフパイプで金メダルを受賞した平野歩選手と、同じくスノーボード男子ハーフパイプに日本代表として出場した平野海祝選手の兄弟の出身地でもあり、永田選手と平野兄弟は地元の同じ公立中学校の出身です。

永田選手がマラソンを始めたのは小学校6年生の頃、そのきっかけはダイエットのためであり、地元で開催される規模の小さなマラソン大会に出場することはあっても、特に目立った成績を残すようなことはなかったといいます。そんな永田少年は中学生になり陸上部に所属しますが、通学していた地元の中学校は陸上競技の名門や強豪校と言われるような学校ではありませんでした。そのため、部活動でも一生懸命に練習することは多くなく、気分が乗らない時には練習をサボって周囲の友達とワイワイと無駄話をしたり、鬼ごっこをして遊んだりなどすることもあったそう。ちなみに、永田選手曰く「勉強のほうは中学生の時にあきらめてしまいました(笑)」。

そんな永田選手が本格的に競技に取り組むようになったのは高校生の時。地元では陸上長距離の名門といわれる新潟県立村上桜ケ丘高校の陸上部に所属し、主に1,500mと5,000mの競技に取り組みます。しかしながら、箱根駅伝に出場するような強豪大学から声がかかる記録を残すまでには至りませんでした。

高校時代の永田選手(2列目右から2人目)=本人提供

それでも、高校の陸上部での経験を通じて競技生活を続けたい、あきらめたくないと思うようになっていた永田選手。その永田選手が卒業後の進路として選んだのは自衛隊。新潟県内では、陸上自衛隊の高田駐屯地の陸上部が熱心に競技に取り組んでおり、そこで競技を続けることを高校の陸上部の恩師から勧められたからです。その後、自衛隊には6年間勤め、陸上部のエースとしてニューイヤー駅伝への出場を目指したが、ついに目標が実現することはなく、永田選手は自衛隊を除隊しました。

除隊後、地元に戻りリサイクル工場などに勤めた永田選手でしたが、ここでも競技生活をあきらめることはできず、ただ一人でのトレーニングを続けました。しかしその中で、自衛隊で競技に取り組んでいた時よりも衰えていく自分自身に向き合うこととなった永田選手。一人ではなく同じ目標に向かって、誰かと一緒に練習することの重要さを痛感し、また、自衛隊という環境が競技に取り組む上でいかに恵まれていたのかを理解するようになったといいます。

永田選手が障害を負ってしまうのはちょうどその頃、2010年12月、26歳のときです。当時勤めていたリサイクル工場での作業中に右腕を機械に巻き込まれ開放骨折するという重傷を負います。そのため、右腕の可動域が狭くなり、さらに首からの神経が麻痺する腕神経叢損傷も負ってしまいました。これでは走るときに右腕を速く振ることができない。永田選手は健常者の競技で好成績を残すには大きすぎるハンディキャップです。

小学生の頃にダイエットを目的にマラソンをはじめ、中学、高校、そして自衛隊で競技に取り組みながらも、なかなか結果を残すことができないまま、事故で障害を負ってしまった永田選手。その永田選手は、なぜ東京パラリンピックで銅メダルを獲得することができたのでしょうか。後編につづく。