日本の男子マラソン界のレジェンドであり、引退後もさまざまな立場でニューイヤー駅伝に関わってきた瀬古利彦氏。現役時代の駅伝の思い出や指導の難しさ、そしてマラソンやトラック種目との関係などを問うと、尽きることなく言葉が紡がれていく。ニューイヤー駅伝の醍醐味とは? そして今大会に期待することとは? 70回の記念すべき大会を前にその思いを語ってもらった。(ニューイヤー駅伝2026inぐんま 第70回全日本実業団対抗駅伝競走大会公式ガイドブックより一部内容を抜粋)
――全日本実業団駅伝は70回大会を迎えます。瀬古利彦さんがエスビー食品に入社された1980年の第25回大会当時、チームは駅伝に参加していませんでした。どんな目で他チームの選手が走る姿を見ていましたでしょうか?
私が今年、69歳を迎えましたので、この大会と私の人生はほぼ同じ長さということに縁を感じますね。
ただ私がエスビー食品に入社した際、中村清監督は個人を重視する指導方針を持っていて、私や、新宅雅也、中村孝生などをオリンピックで走らせることに注力していたんです。そもそも駅伝を走れるだけの数の選手がいなかったので、出ることは不可能でした。ですので、当時は旭化成、鐘紡(現花王)、神戸製鋼などが強いことは知っていましたが、駅伝のことは考えなかったですし、テレビ中継も時間が経たってからの録画放送だったので、あまり見ていません。
意識するようになったのは84年、選手の人数が集まり、駅伝に出ることが決まってからです。もともと中村監督は“選手が揃そろったら駅伝に出よう”とおっしゃっていましたので、これは予定通りでしたね。“いよいよ出るのか”とワクワクしましたよ。
――その84年の第29回大会でエスビー食品は初出場、初優勝を果たします。7区間中5区間で区間賞を獲得し、2位旭化成に6分以上の大差をつける圧倒的な勝利でした。そしてそこから4連覇と一時代を築きます。どんなチームだったのでしょうか?
初めて全日本実業団駅伝に出た84年はロサンゼルスオリンピックが開催された年で、私はそこで結果を残せなかったんです(男子マラソン14位)。
この当時の全日本実業団駅伝は私の地元、三重県で行われていましたから、なんとか故郷で自分らしい走りをしたいと思って臨みました。私だけでなく新宅、中村などオリンピック選手が多くいましたので、負けてはいけないと思っていましたし、むしろ勝って当然と考えていましたが、実際、優勝できたときは嬉うれしかったですよ。私は学生時代に箱根駅伝で優勝できなかったので、“駅伝で勝つってこんなに嬉しいんだ。走ってよかったな”と心から思いました。区間賞も取れ、地元で応援してくれる方たちにも元気なところも見せられましたし、いい思い出しかありませんね。
そこから勝ち続けることができましたが、もともとエスビーが駅伝に参加し始めた理由は若手選手に活躍の場を与えるためだったんです。私たちオリンピックに出るような選手と若手では力の差がありすぎましたから。実際、金井(豊)、谷口(伴之)、坂口(泰)、遠藤(司)ら当時の若手は普段は私の練習のペースメーカーを務め、それが終わってから自分たちの練習をしていたんです。だから彼らが台頭し、活躍するようになって嬉しかったですよ。
4連覇中、私は1954年と86年の2回しか走っていませんが、この2回は若い選手をアシストする意味で走った駅伝です。優勝できたことはマラソンで勝つのとはまた違う充実感がありました。同じ釜の飯を食った仲間が集まって勝つ喜びは駅伝ならではだと思います。

第29回全日本実業団対抗駅伝競走大会、久しぶりの郷里で観衆の声援を受けて6区を快走する=三重・鳥羽駅前で1984年12月16日
――その4連覇の最後となる第32回大会から1月1日、群馬県前橋市発着での開催となります。この変更はどのように受け止めましたか?
お正月から走らないといけないのかと正直思いました(笑)。
ただ、この大会は私は走っていないんです。85年に中村監督が事故で急逝してから、監督不在で、この年の大会は私は監督代行としてチームのサポートに徹していました。ただお正月は注目が集まりますし、88年からテレビ放送も始まったので、すごくやり甲が斐いがありました。やっぱり会社は注目されることで喜びますし、選手も多くの人に見られる方が、気分が上がります。
今ではニューイヤー駅伝という愛称も定着しましたし、この大会を境に全日本実業団駅伝が大きく変わったことは間違いないですね。
――88年をもって現役を引退し、翌年からエスビー食品の監督に就任しますが、再度、駅伝から撤退します。
選手数の減少もありましたし、90年には合宿中の事故で選手やスタッフが亡くなるという不幸がありました。私自身の悲しみが深く、またその後、チームを立て直すことに奔走しましたので駅伝に出るだけの余裕はなかったですね。
再度、参加できるようになったのは95年の大会から。早稲田大で三さん羽ば烏がらすと言われた櫛部静二(現城西大男子駅伝部監督)、花田勝彦(現早大駅伝監督)、武井隆次が入った年です。
――しかし現役時代とは異なり、なかなか勝てませんでした。指導者として駅伝の難しさは感じましたか?
旭化成などは駅伝を勝つための仕組みがしっかりできあがっていましたが、私たちのチームにそうしたものがなかったのが理由でしょう。
駅伝はオーダーの組み方や区間によっての対応の仕方など、蓄積された情報やノウハウが采配に影響を与えますし、当然、結果も左右します。当時の旭化成の監督だった宗茂さんによく「瀬古は甘い。駅伝で勝てないのは監督力の差だ」と言われました。実際、旭化成に勝てませんでしたので、反論できませんでしたよ。私たちのチームには1万メートルを27分台で走る選手が4人いたこともありますが、それでも勝てませんでしたので、やっぱり監督力の差だったんでしょうね。
――日本の長距離種目やマラソンがレベルアップしていくために駅伝をどう活用していくべきでしょうか?
冬のマラソンに向かう過程で地区駅伝があり、ニューイヤー駅伝があるので、スケジュール的にはマラソンへ影響が出るという見方もできるかもしれません。ただ本当にマラソンで世界と勝負するのであれば、国内の駅伝の距離はスピード練習のつもりで参加するくらいの感覚を持つことが大切です。そのレベルを目指すことが、マラソンの競技力向上につながります。
またトラック選手にとって冬は緊張感のあるレースが少ないので、ひとつ目標にできる大会です。特に1万メートルの選手にとってニューイヤー駅伝はちょうどいい距離です。本当にどの区間もいい距離で設定されていると思います。
――2024年の第68回大会からコースが変更され、これまで最短でインターナショナル区間だった2区が最長区間となり、4区がインターナショナル区間となりました。これについてはどう受け止めていますか?
いいことだと思いますね。今までは2区で外国人選手が流れを作っていましたが、そこを日本人が担うことになります。3区まで日本人が走るのですから短い4区だけで流れが変わる可能性は少なく、チームとしての総合力が試されるようになったのではないでしょうか? また早い段階から日本人エースたちの競い合いが生まれ、見る側にとっても面白くなりました。
――今回、そのニューイヤー駅伝も70回の節目の大会を迎えます。今大会に期待することはありますか?
これまで世界の長距離界はケニア、エチオピアを中心としたアフリカ勢が席巻していましたが、今年の夏の東京世界陸上では多くの長距離種目でアフリカにルーツを持たない選手たちが優勝を果たしました。それを見て、日本人でも戦えると私は改めて感じました。
ロサンゼルス五輪はもう3年後に迫っています。今回のニューイヤー駅伝に出場する選手たちは、“次は自分たちの番だ”という高い意識で走ってほしいですね。それに東京世界陸上は多くの観客が国立競技場に集まり、大会自体も本当に盛り上がりました。その熱気や興奮をこのニューイヤー駅伝でも再現してほしいと思います。 沿道やテレビで見る選手が、次の日本代表になるかもしれませんので、ファンの皆さんにはぜひ選手の名前や特徴を覚えて、期待を込めた応援をしていただきたいです。
繰り返しになりますが、日本の長距離を駅伝が支えているのですから、未来に向けてこのニューイヤー駅伝がもっともっと盛り上がることを願っています。
(構成・加藤康博、取材・2025年10月)

瀬古利彦(せこ・としひこ) DeNA スポーツグループ フェロー
1956年三重県生まれ。福岡国際マラソン、東京国際マラソンだけでなくボストン、ロンドン、シカゴといった海外マラソンも制し、マラソン戦績通算15戦10勝。1970年代から80年代にかけ「世界最強」と称された。オリンピックは84 年ロサンゼルス、88年ソウルに出場。近年は日本陸連マラソン強化戦略プロジェクトリーダー、同ロードランニングコミッションリーダーも務めた。

ニューイヤー駅伝2026inぐんま
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・宗茂・宗猛兄弟が明かすNY駅伝の変貌
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