楽しみながら続ける 防災アクション10【ニュースがわかる9月号】

太平洋戦争の時に毎日小学生新聞はつくられていましたか?【疑問氷解】

Q 太平洋戦争の時に毎日小学生新聞はつくられていましたか?(東京都文京区、小1)

戦争中一時休刊、反省を胸に戦後復刊

 A 毎日小学生新聞(毎小)は、第二次世界大戦末期の1945(昭和20)年4月から7か月間休刊しました。

 毎小は1936(昭和11)年12月22日、「大毎小学生新聞」として創刊しました。その年の2月に、陸軍の若い将校(指揮官)の一団が武力で政府を倒そうとした「2・26事件」が起きました。この事件をきっかけに軍の力が強まり、戦争に向かっていきます。翌年7月7日、日本と中国の両軍がぶつかった盧溝橋事件が発生し、日中戦争が始まりました。

 7月30日の紙面には「無法を懲らす正義の砲火」の見出しで、「正しい道を歩んで、堂々と支那(中国)をうち懲らすわが軍は、二十八日も各方面で大勝利をあげました」と報じています。

 戦争が激しくなるにつれ、紙面のニュースや読みもの、マンガも、戦争を扱ったものばかりになりました。1941(昭和16)年1月から、戦時下の少年少女を意味する言葉「少国民」を用いた「少国民新聞」と名前を変えました。

 国民が戦う気持ちをなくすことをおそれ、軍は取り締まりを強め、新聞は本当のことを書くことができなくなりました。新聞紙等掲載制限令、国防保安法が成立し、軍による紙面の検閲(内容を調べること)が行われました。軍が発表する内容以外を書くことは禁止されました。

 小学生新聞も例外ではありませんでした。1941(昭和16)年12月8日、日本軍はアメリカ・ハワイの真珠湾を攻撃しました。イギリス領のマレー半島にも上陸し、アメリカやイギリスなどと太平洋戦争が始まりました。

 翌年の元日紙面では、海軍省が撮影した写真とともに「素晴らしいお年玉」という見出しで大きく掲載しました。「無敵海軍を誇った当の米国(アメリカ)はもちろん、世界の各国は今さらのごとく、帝国海軍(日本の海軍)の威力に驚嘆したのであります」と伝えました。

 最初は日本軍が勝っていましたが、1942(昭和17)年6月のミッドウェー海戦の大敗を境に苦戦におちいります。新聞は苦しい状況を伝えず、戦争へ向かう気持ちを高めるような記事を載せ続けました。

 1945(昭和20)年1月の紙面では「飼おう殖やそう 軍用兎」の見出しで、「兵隊の毛皮は少国民の手で」と、子どもたちにウサギの飼育を勧める記事を載せました。

 この年の3月31日を最後に毎小は休刊します。「はげしい戦局にそなえて、新聞の態勢が四月から一社一紙を守るという建前になりました」「聖戦を勝ち抜くための非常措置としてやむを得ぬことと思います」と休刊のお知らせを掲載しました。

 8月15日に終戦を迎え、11月1日に毎小が復刊しました。

 紙面には「少国民新聞休刊前の数年間というものは、皆さんにおしらせしなければならないことの中に、時の政府の指導でゆがめられたことがたくさんありました。今日からの少国民新聞には、そういうことは、すっかりなくなって、少国民として知らなければならないことは、なんでも正しく報道することができます」と掲載されました。

 1947(昭和22)年4月に題字が「毎日小学生新聞」に変わりました。【毎日小学生新聞編集部・篠口純子】
(毎日小学生新聞2023年12月18日掲載)

1945年1月26日の少国民新聞(現在の毎日小学生新聞)には「兵隊の毛皮は少国民の手で」とウサギの飼育を勧める記事が載っている

★「疑問氷解」は毎日小学生新聞で毎週月曜日連載中!