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なぜものには名前があるの? <子どもの哲学>

 誰もが一度は抱いたことのあるような問いについて、4人の哲学者が、子どもたちとともに考え進めていくという形で書かれた『子どもの哲学 考えることをはじめた君へ』(毎日新聞出版刊)。大人も子どももいっしょになって、ゆっくりと考えてみませんか。本書から一部をご紹介します。本書のもとになった「てつがくカフェ」は、毎日小学生新聞で毎週木曜日に連載中です。

名前ってなんだろう?……ツチヤくん

 たしかに、あらゆるものには名前があるような気がするよね。もしこの世から名前が一切なくなったら、言葉はいったいどうなるのだろう? たとえば「ムラセくんとコーノくんがケンカをしている」は「あの人とあの人がケンカをしている」と言い表せばよいのかな? 

 でも「人」だって「ライオン」や「キリン」と同じで、動物の種類の名前だ。だとしたら「あれとあれがケンカをしている」になる? でもよく考えると「ケンカをしている」だって、「笑う」や「泣く」と同じ、動作の名前だ。ということは「あれとあれがあれしている」ならOK? でもここまでくると、そもそも「あれ」だって、何かを指すことを表す言葉の名前だって気がしてくる……。

 こう考えていくと、今度は「名前」っていったいなんだろうという疑問がわいてくる。「名前」と聞いていちばん最初に思い浮かべるのは「人の名前」だと思うけれど、人の名前は、世界に一人しかいない「その人」を指すために使うものだよね。

 では、ものの名前は? たとえば、「りんご」は代表的な「ものの名前」だけれど、この名前は、いま目の前にある世界に一つしかない「このりんご」だけを指すものじゃない。「りんご」というのは、みかんや梨とは異なるりんごという種類のくだもの全部を指す「種類の名前」なんだ。とすると、「ものの名前」は「人の名前」とだいぶ違う働きをしていることになる。これらをすべて「名前」と考えることにするか、「人の名前」みたいなものだけを「名前」と考えることにするかによっても、この問いの考え方は変わってくるんじゃないかな。

名前のないものもある……コーノくん

 あらゆるものに名前がついているとは、全然思わないよ。私の部屋の窓の外には桜の木があるけれど、その曲がり具合はほかのどの桜の木の曲がり具合とも違う。その独特な曲がり具合の桜の木をただ「桜の木」と言っただけでは、この桜の木を言い表せていないから、名前をつけたことにはならない。「この位置でこんな角度で曲がり、次はその何センチ先がこの方向にこんな角度で曲がって……」と書いていくと、とんでもない長い文章になってしまって、これも「名前」にはならない。どう言い表そうとしても、実物の代わりにならないと思うんだ。言葉では言い表せないものがあるっていうのは、どういうことなんだろう。

 アマゾンのジャングルにはいろいろな種類の昆虫がいて、名前のつけられている昆虫は全体の一割にもならないというよ。昆虫学者もあまりに種類が多いので、いちいち名前をつけることをあきらめていて、ほとんどの昆虫には名前がないんだ。もちろんどの昆虫も、昆虫は昆虫だから、それを「虫」とか「生き物」と呼ぶこともできるけれど、それではほかの虫や生き物と区別して、ちゃんと名前をつけたことにはならない。君のことを「人間」とか「小学生」とか、「男の子」「女の子」と呼んでも、君に名前をつけたことにならないでしょう?

 国語辞典には約十万語の単語が載っているというけれど、ものの区別はもっともっとたくさんあるし、もっともっと細かく区別もできる。だから、世界には名前がないもののほうが圧倒的に多いよ。君のまわりにある、名前のないものを探してみたらどうかな。

名前はつけていくもの……ムラセくん

 たしかに、あらゆるものに名前がついているわけではないけれど、僕は、がんばれば名前をつけられると思う。だって、がんばればジャングルにいるすべての昆虫にも、いずれは全部に名前をつけられるからだ。桜の木の曲がり具合も細かく一つ一つ名前をつけていけばいい。

 名前をつけることは珍しいことではない。赤ちゃんが生まれれば名前をつけるし、新しい星を発見したら名前をつける。君だって、新しいぬいぐるみに名前をつけたりしたことがあるはずだ。さらに、現実の世界にはないものにも、名前はつけられる。「閻魔大王」や「ペガサス」みたいな架空のものも、名前をもっている。

 この世界に存在しないものにだって名前がある。だとすれば、じつはこの世界に存在するあらゆるものの数よりも、その名前のほうが多くて、僕たちがまだ知らない、名前がついていない未知のものたちも、僕たちに名前をつけられるのを待っているってことだ。

 名前がある理由は、それがどういうものなのかを、僕たちが知るためだ。だけど、そんなふうに世界中のものに名前をつけることができるのは、ものがすでに隠しもっている名前を、後から僕たちが利用しているからなんだよ。

まとめ ものが自分の名前を決めている?……ゴードさん

 世界にはいろいろなものがあるけれど、すべてに、それらを言い表すための「名前」がついていそうだね。ツチヤくんがはじめに書いているように、名前がないと、何も伝えられなくなって困ってしまう。でも、どんなものにも名前があるなんて、とても不思議。

 ツチヤくんは、「名前には二種類ある」と言っている。それは、ものの種類の名前と、一つのものだけがもっている名前だね。「吾輩は猫である。名前はまだ無い」というはじまりの有名なお話、知ってる? この猫には、「猫」という種類の名前はついているけれど、「タマ」みたいな自分だけの名前は、まだついていないんだね。そういう自分だけの名前をもっているものと、そうでないものは、何が違うんだろう。

 それじゃあ種類の名前は、どんなものにもついているかな。コーノくんは、名前のないものもたくさんあると言っている。とても大ざっぱな種類の名前はあったとしても、木の曲がり具合とか、そういうもののすべてにいちいち名前がついているわけじゃないという。人間が区別できるものの数よりも、私たちが使っている名前の数のほうが、ずっと少ないということになるね。

 でもムラセくんは、名前のないものも、ほんとうは、名前をつけられるのを待っているんだと考えているよ。名前のないものに名前をつけるというのは、じつはよくあることだよね。ムラセくんは、すでにものが隠しもっている名前を、私たちが後から利用しているんだと言っているけれど、これはどういうことかな? 新しい名前をつけるときは、名前をつける人が頭のなかで勝手に考えて、その名前を相手にあげている気がする。でもやっぱり、似合う名前と似合わない名前があるから、じつは名前をつけられるほうが自分で決めているんだという気もする。あなたはどう思う?
「てつがくカフェ」は毎日小学生新聞で毎週木曜日に連載中

<4人の哲学者をご紹介>

コーノくん 河野哲也(こうの・てつや)

慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は哲学・倫理学・教育哲学。現在、立教大学文学部教育学科教授。NPO法人「こども哲学おとな哲学アーダコーダ」(副代表理事)などの活動を通して哲学の自由さ、面白さを広めている。

ツチヤくん 土屋陽介(つちや・ようすけ)

千葉大学大学院社会文化科学研究科博士課程満期退学。博士(教育学)(立教大学)。専門は子どもの哲学(P4C)・応用哲学・現代哲学。現在、開智国際大学教育学部准教授。

ムラセくん 村瀬智之(むらせ・ともゆき)

千葉大学大学院人文社会科学研究科修了。博士(文学)。専門は現代哲学・哲学教育。現在、東京工業高等専門学校一般教育科准教授。

ゴードさん 神戸和佳子(ごうど・わかこ)

東京大学大学院教育学研究科博士課程満期退学。専門は哲学教育。現在、長野県立大学ソーシャル・イノベーション研究科講師。中学校・高等学校等での対話的な哲学の授業のほか、哲学カフェ、哲学相談などの実践・研究も行っている。

 

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