誰もが一度は抱いたことのあるような問いについて、4人の哲学者が、子どもたちとともに考え進めていくという形で書かれた『子どもの哲学 考えることをはじめた君へ』(毎日新聞出版刊)。大人も子どももいっしょになって、ゆっくりと考えてみませんか。本書から一部をご紹介します。本書のもとになった「てつがくカフェ」は、毎日小学生新聞で毎週木曜日に連載中です。
偶然に起こること……コーノくん
病気にはいろいろな種類があって、その原因もいろいろだ。たとえば、風邪はウイルスという物質が身体に入って起こる。風邪を防ぐ方法はいろいろあるし、お医者さんに行けば薬をくれる。でも、この問いを考えてくれた君が聞きたいのは、病気が生じる原因じゃない。「自分につらいことや嫌なことがあるとき、さらに自分をいじめるような病気になるのはなぜか」ということだ。
でも考えてみて。世のなかにはいじわるな人がいて、人が困っているのを知っていてわざと嫌なことをする人もいる。そういう人には「いじわるをやめてよ」と言いたくなる。けれどウイルスは、君が困っているのを知るはずがない。ウイルスは単純な構造をしていて、何かを知る能力なんてもっていない。ウイルスは動物じゃないから、いじわるな気持ちをもてない。だから、台風や雷、地震、隕石の落下といった自然現象に対して「なぜ悪いことをするの?」って聞いても意味がないのと同じなんだ。それは、人の気持ちとは無関係に、偶然に起きるんだ。
いつかは必ず起こる必然……ムラセくん
たしかにコーノくんが言うように「偶然」というのもわかるな。原因もわからず、重い病気にかかったりすることもある。それは運の問題かもしれない。
ただ、病気には偶然や運とは違う部分もあると思う。いままで一度も病気にかかったことのない人って、僕は会ったことがないし、君も会ったことないんじゃないかな? それに、若いときに病気になったことがなかったとしても、年をとれば病気になりやすくなる。ということは、ちょっと極端に言えば、いまは健康でも、病気はいつか必ずかかるものってことになりそうだ。
どんな人でも死が避けられないように、病気にかかることもじつは避けられないことなんだ。だとすると、病気にかかるのは、ある意味では必ず起こること――「必然」だと言ってもいいのかもしれない。これは、嫌なことや困りごとは生きていると必ず起きてしまう、ということでもある。
この必然自体にもほんとうは目的や理由があるのかな? それとも、単に世界がそうできてしまっているだけかな? 僕は、目的や理由はなくて、単に世界がそうできているだけのような気がするな。こんなふうに世界ができているって、ちょっと悲しいね。
回復の喜びを感じるため……ツチヤくん
コーノくんの意見とムラセくんの意見は、病気にかかるのは「偶然」か「必然」かで一見食い違っているように見えるけれど、僕には二人とも正しいことを言っているように思える。二人の意見を合わせて考えるなら、病気や自然災害でつらい思いをすることは、究極的にはなんの理由もない(単にそういうことが起こっただけで、「なぜ?」の問いには答えられない)という意味で「偶然」なのだけれど、そういうつらい偶然はすべての人に平等にふりかかるという意味では「必然」なんだ。だとすると、ムラセくんが言うように、そもそもなんでこの世にはつらい偶然が存在するのか、という問いが残る。病気なんて一切存在しない世界があってもいいのに!
でもつらいことが何もなかったら、僕たちはどうやって喜びや幸せを感じるのだろう? つらいことが何もない状態は、たしかに安楽ではあるかもしれないけれど、刺激もなく退屈で、幸せとは感じられないかもしれない。苦しみやつらさを克服したときに喜びや幸せを感じられるのだとしたら、病気があるからこそ回復の喜びを味わうことができる、とも言えるんじゃないかな? そう考えると、ひょっとしたら神様は、僕たちに喜びや幸せを味わってほしいがために、あえてつらいことをこの世に残したのかもしれない。
まとめ 納得できないものを抱えて生きる……ゴードさん
病気にかかるのはとてもつらい。だから、病気になると「どうしてこんな目にあわなきゃいけないの」と思ってしまう。でもコーノくんは、そういう「どうして」には理由はないと言っているね。病気だけでなく、事故や自然災害にあってしまうことにも、理由はない。誰も悪くないのに、たまたま、誰かがひどい目にあってしまうことがあるんだ。
ムラセくんは、そういう「たまたまひどい目にあう」ということは、生きていると必ず起きてしまうと言っている。どんなに注意深く生きていても。たまたま起きる嫌なことに。まったくあわずに生きていける人はいない。世界はそういうふうにできているんだね。
ムラセくんとツチヤくんは、どうして世界はそんなふうに、人々がつらい目にあわなければならないようにできているのかを考えている。ムラセくんは、それには目的も理由もないと言っている。ツチヤくんは、喜びや幸せを感じるために、つらさや苦しみが必要だからではないかと考えている。どちらが正しいのかな。どちらが正しかったとしても、やっぱり、納得がいかない感じがする。なんの理由もないとわかっていても、あるいは、悲しみがなければ喜びもないんだと思ってみても、やっぱり、病気で苦しい思いをしたり、大地震でたくさんの人が亡くなったりするのを見ると「こんなのひどいよ、どうして」と思ってしまう。
世のなかにはこんなふうに、いくら考えても納得のいかないことがある。そういうときは、うそでもいいから答えがほしくなるけれど、うその答えで満足してはいけない。とてもつらいけれど、納得いかない気持ちを抱えたまま、その気持ちとつきあいながら生きていかなければならないこともあるんだ。
★「疑問氷解」は毎日小学生新聞で毎週木曜日に連載中
<4人の哲学者をご紹介>
コーノくん 河野哲也(こうの・てつや)
慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は哲学・倫理学・教育哲学。現在、立教大学文学部教育学科教授。NPO法人「こども哲学おとな哲学アーダコーダ」(副代表理事)などの活動を通して哲学の自由さ、面白さを広めている。
ツチヤくん 土屋陽介(つちや・ようすけ)
千葉大学大学院社会文化科学研究科博士課程満期退学。博士(教育学)(立教大学)。専門は子どもの哲学(P4C)・応用哲学・現代哲学。現在、開智国際大学教育学部准教授。
ムラセくん 村瀬智之(むらせ・ともゆき)
千葉大学大学院人文社会科学研究科修了。博士(文学)。専門は現代哲学・哲学教育。現在、東京工業高等専門学校一般教育科准教授。
ゴードさん 神戸和佳子(ごうど・わかこ)
東京大学大学院教育学研究科博士課程満期退学。専門は哲学教育。現在、長野県立大学ソーシャル・イノベーション研究科講師。中学校・高等学校等での対話的な哲学の授業のほか、哲学カフェ、哲学相談などの実践・研究も行っている。
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