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【ニュースがわかる2024年5月号】巻頭特集は10代のための地政学入門

生誕150年 阪急創業者の小林一三さんって?【ニュース知りたいんジャー】

今年は、阪急阪神東宝グループの創業者・小林一三の生誕150年の年です。一三は、阪急電鉄の経営者として沿線の住宅地や行楽地を開発したほか、阪急百貨店や宝塚歌劇団の創設など、さまざまな事業を展開しました。大阪府池田市にある「小林一三記念館」の仙海義之館長に一三の功績を教えてもらったんジャー!【長尾真希子】


 ◇どんな功績が?


 1873年1月3日に生まれたことから「一三」と名付けられました。母親を早くに亡くしましたが、山梨県韮崎市で裕福な環境に育ちました。
 15歳で上京し、今の慶応大学で学んだ後、旧三井銀行を経て、1907年に箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)を創設しました。鉄道のほか宝塚歌劇、土地開発、百貨店、映画、野球などの事業に乗り出し、私鉄経営のビジネスモデルを確立しました。
 政界でも活躍し、商工大臣や戦災復興院総裁を務めました。東京・田園調布の開発や、経営状況が悪くなっていた東京電灯(現)東京電力の再建にも奔走。57年に、大阪府池田市の自宅で84歳の生涯を閉じました。


 ◇阪急電鉄開業のきっかけは?


 大阪と京都の舞鶴を結ぶ私鉄の「阪鶴鉄道」が国有化され、現在のJR福知山線になります。その時、阪鶴鉄道は「川西池田―梅田」間に鉄道を作るための免許を持っていたことから、新会社「箕面有馬電気鉄道」を設立しようとしましたが、不況で困難に。そこで名乗りを上げたのが、阪鶴鉄道の監査役を務めていた一三でした。
 1907年に箕面有馬電気軌道と社名を改めます。10年3月に宝塚線(梅田―宝塚)と箕面支線(石橋―箕面)の営業を始めたのが、阪急電鉄の始まりです。
 当時、沿線にある観光地は、箕面の滝と宝塚温泉だけでした。一三は、レジャー施設を作り、沿線の土地を買って、日本の鉄道会社で初めて郊外型分譲住宅を販売します。
 「日本初の住宅ローンを思いついたのも、一三が銀行マンだったから。『平日は仕事で都会へ、休日は家族でレジャー施設へ』というライフスタイルを作り上げました。今では当たり前となった沿線の住宅開発は、一三の成功がモデルとなり、他の鉄道会社へ波及したと言えます」と仙海さんは解説します。


 ◇宝塚歌劇も作ったって?


 家族で楽しめるレジャー施設を作り、乗客を増やそうと1911年にオープンしたのが「宝塚新温泉」です。その室内プールを改造した「パラダイス劇場」で、14年に余興として始めた宝塚少女歌劇が、現在の宝塚歌劇になります。一三が、16人の少女たちによる「宝塚唱歌隊」を結成したのです。
 その後、東京進出を果たし、18年には雑誌「歌劇」を発刊します。19年には、「宝塚音楽歌劇学校」を創立し、「宝塚少女歌劇団」が誕生します。「27年に上演された『モン・パリ』では、今の宝塚の象徴である大階段やレビューが誕生。そのころから男役も登場し、現在の華やかな舞台が形作られました」と仙海さんは話します。34年には東京に「東京宝塚劇場」がオープンし、「宝塚」は全国区になっていきます。
 一三は、映画事業にも進出し、43年には「東宝」を設立。鉄道のみならず、文化事業にも力を注)ぎました。


 ◇発想の源は?


 「たくさんのお客様に楽しんでもらおうと、常に『お客様ファースト』の視点を持っていたことが、手広い仕事につながったのでは」と仙海さんは分析します。
 例えば、当時、鉄道会社が駅に百貨店を作るなど考えられませんでした。「便利な場所ならのれんなしで客が集まる」という一三の言葉通り、1925年にデパートをオープンさせると、今でいう「デパ地下」の食料品売り場が大盛況に。また、日本初の前払い制の「食券」を導入した「阪急食堂も人気を博したといいます。家族みんなが別々のメニューを楽しめる、今でいう『フードコート』のような存在でした。「人の考えによらず、自分の考えでやりたいことを実行していくアイデアマンでした」


 ◇文化人でもあったの?


 一三は、慶応在学中に山梨日日新聞で小説を連載していたほどの文学青年でした。「ただ、本当にあった殺人事件を題材にしており、あまりにも真に迫った内容だったため、一三が犯人と間違えられ、連載が打ち切られてしまいました」と仙海さんは話します。
 俳句を愛し、約3000句の俳句を残したほか、宝塚歌劇の脚本なども執筆しました。絵画や陶磁器など美術品の収集家でもあり、一大コレクションは、大阪府池田市にある「逸翁美術館」で見ることができます。
 「茶の湯」もこよなく愛し、茶会も頻繁に開催。現パナソニック創始者の松下幸之助に茶道を勧めたのは、一三だったといいます。「ビジネスのみならず、私生活でも常に人を楽しませようと考えている人でした」(2023年09月13日毎日小学生新聞より)