80年前の1945年8月15日、日本は戦争に負けて終戦を迎えました。戦争孤児をはじめ、日本の植民地などにいた民間人や兵士にとっては、戦争が終わったからといって、ただちに平和が訪れたわけではありませんでした。「引き揚げ者」と呼ばれた人たちのことを、知りたいんジャーと調べてみました。
終戦当時、日本の植民地や占領地など、国外には約660万人の日本人がいたといわれています。厚生省(今の厚生労働省)がまとめた資料「援護50年史」によると、出征していた軍人や軍属(軍人の下で働いた人たち)と民間人で、このうち半数は民間人が占めたそうです。
660万人という人数は、当時の日本の人口の1割近くに及び、それぞれの人たちがいた地域から、日本へ向けて帰国する「引き揚げ」が始まることになりました。
2015年3月に厚生労働省がまとめた資料によると、海外からの引き揚げ者の数が最も多かったのは中国本土からで、約154万人でした。次にかつて「満州」(大連を含む)と呼ばれた中国東北部から約127万人、東南アジアから約89万人と続きました。
中国本土からの引き揚げでは、軍人らが7割近くを占めたのに対し、旧満州の引き揚げのほとんどが民間人でした。当時の国際情勢なども大きく影響し、身一つで帰国した人も多くいました。

長崎・佐世保港に入港した中国・大連からの引き揚げ船。着の身着のままの引き揚げ者の姿が目立ちました=1946年12月8日
明治時代、日本は清(当時の中国の王朝)やロシア帝国と戦争し、勝利して領土や権益(日本が、他の国で持つ権利やそれに伴う利益)を得ました。朝鮮半島や台湾を植民地にしました。
第一次世界大戦では、ドイツ領だったマリアナ諸島やパラオ諸島などの南洋諸島を、委任統治と呼ばれるやり方で支配するなどして国土を広げました。植民地や占領地などには軍隊が駐留し、民間企業なども進出しました。
さらに、昭和時代に入ると、世界恐慌のあおりを受け、日本は深刻な経済不況に陥りました。凶作もあり農村は疲弊し、自分の土地を持たない人たちは海外へ生活の場を求めるようになりました。
日本は1932年、名ばかりの国家「満州国」を中国東北部につくり、国の政策として土地を切り開く「開拓団」を募りました。これにより約27万人が農業移民として満州に移り住みました。そんな歴史があり、多くの日本人が海外にいたのです。
太平洋戦争の終戦で日本が受け入れたポツダム宣言では、日本軍については「家庭復帰」が明記され、軍人から先に帰国することになりました。ただ、ソビエト連邦(ソ連)は、旧満州や朝鮮半島北部などに駐留していた日本兵らをシベリアやモンゴルへ連れて行き、強制的に働かせました。連れて行かれ、シベリアなどに留め置かれた人(抑留者)は約57万5000人に及び、約5万5000人が亡くなりました。
民間人について日本政府は当初、その地にとどまり定住させる方針でしたが、その後、日本へ帰国できるよう態勢を整えました。
異国にいた日本人は、混乱の中に置かれました。飢えや病気、寒さに苦しみました。途中で亡くなった人も少なくありませんでした。1949年末までに軍人を含め約624万人が日本へ帰還しました。戦後の混乱で孤児となり、中国の養父母に育てられるなどした「中国残留邦人」のような人も生じ、苦労を重ねることになりました。

再開されたシベリアからの引き揚げ者を出迎えようと、岸壁で待つ人々=京都府の舞鶴港で1953年12月
旧満州から引き揚げてきた京都府の黒田雅夫さん(88)の話を聞く機会がありました。
当時8歳だった黒田さんは、引き揚げ船が出る港を目指し、ソ連の兵士や地元の人などに見つからないよう、夜に移動しました。女性は茶わんのかけらで髪をそいで変装しました。約300キロメートルを歩くなどして1945年9月、ようやく日本人の収容所にたどり着きました。
栄養失調で亡くなった人たちが積み重なった横で、食事の用意をしました。冬の間に祖父と母が亡くなり、孤児になった黒田さんは、路上生活を始めました。「孤児になると売られてしまうと恐れ、誰も信じてはいけないと思った」そうです。その後保護され、46年7月に日本へ引き揚げ、後に父親とも再会できました。
黒田さんは17年前から、長男と一緒に、体験を伝える活動をしています。本にもまとめました。「80年たっても、多くの人が心に大きな傷を負っています。戦争はダメだと、命ある限り伝えていく」と話しました。
もっと知りたい人に向けて、関係する博物館や本を紹介します。
東京・新宿にある「帰還者たちの記憶ミュージアム」では、抑留された人たちが暮らした収容所での厳しい生活の様子や、引き揚げ船の中の様子を、それぞれ再現した展示を見ることができます。体験談の書籍や映像などの資料も充実しています。
また、日本海側にあり引き揚げ港の一つだった京都・舞鶴では、シベリア抑留者ら引き揚げ者を迎え入れました。「舞鶴引揚記念館」は、シベリア抑留や、市民による引き揚げ者の出迎えの様子などを紹介しています。引き揚げの歴史をはじめ、館内の資料などを中学生らが説明する「学生語り部」活動も盛んです。
本では、藤原ていさんの「流れる星は生きている」などが知られています。皆さんの住む街の図書館には、地域の人が引き揚げなどの体験をつづった記録があるかもしれません。ぜひ、手に取ってみてください。

京都府の舞鶴港は、1958年の引き揚げ業務終了までに、シベリア抑留者など約66万人の引き揚げ者を受け入れました。その歴史を伝える「舞鶴引揚記念館」では、中高大学生が「学生語り部」として、史実や展示内容を来館者に解説する活動をしています=京都府舞鶴市で2024年5月
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戦後80年の今年、戦争体験を伝える全国の13施設で作る「全国関連施設ネットワーク会議」が各施設を紹介する「平和のことミュージアムガイド」を製作しました
◆帰還者たちの記憶ミュージアムのサイト(https://www.heiwakinen.go.jp/about/pamphlet/)からもダウンロードできます
(2025年9月10日毎日小学生新聞より)
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