世界の人たちと生きる これからの日本【月刊ニュースがわかる11月号】

戦後80年 引き揚げ者 戦後も続いた苦しみ【ニュース知りたいんジャー】

80年前ねんまえの1945ねんがつ15にち日本にっぽん戦争せんそうけて終戦しゅうせんむかえました。戦争孤児せんそうこじをはじめ、日本にっぽん植民地しょくみんちなどにいた民間人みんかんじん兵士へいしにとっては、戦争せんそうわったからといって、ただちに平和へいわおとずれたわけではありませんでした。「しゃ」とばれたひとたちのことを、りたいんジャーと調しらべてみました。

げってなんですか?


 終戦当時しゅうせんとうじ日本にっぽん植民地しょくみんち占領地せんりょうちなど、国外こくがいにはやく660万人まんにん日本人にっぽんじんがいたといわれています。厚生省こうせいしょういま厚生労働省こうせいろうどうしょう)がまとめた資料しりょう援護えんご50年史ねんし」によると、出征しゅっせいしていた軍人ぐんじん軍属ぐんぞく軍人ぐんじんもとはたらいたひとたち)と民間人みんかんじんで、このうち半数はんすう民間人みんかんじんめたそうです。

 660万人まんにんという人数にんずうは、当時とうじ日本にっぽん人口じんこうの1割近わりちかくにおよび、それぞれのひとたちがいた地域ちいきから、日本にっぽんけて帰国きこくする「げ」がはじまることになりました。

 2015ねんがつ厚生労働省こうせいろうどうしょうがまとめた資料しりょうによると、海外かいがいからのしゃかずもっとおおかったのは中国本土ちゅうごくほんどからで、やく154万人まんにんでした。つぎにかつて「満州まんしゅう」(大連だいれんふくむ)とばれた中国東北部ちゅうごくとうほくぶからやく127万人まんにん東南とうなんアジアからやく89万人まんにんつづきました。

 中国本土ちゅうごくほんどからのげでは、軍人ぐんじんらが7割近わりちかくをめたのにたいし、旧満州きゅうまんしゅうげのほとんどが民間人みんかんじんでした。当時とうじ国際情勢こくさいじょうせいなどもおおきく影響えいきょうし、身一みひとつで帰国きこくしたひとおおくいました。

長崎・佐世保港に入港した中国・大連からの引き揚げ船。着の身着のままの引き揚げ者の姿が目立ちました=1946年12月8日

 なぜ、おおくの日本人にっぽんじん海外かいがいに?

 明治時代めいじじだい日本にっぽんしん当時とうじ中国ちゅうごく王朝おうちょう)やロシア帝国ていこく戦争せんそうし、勝利しょうりして領土りょうど権益けんえき日本にっぽんが、ほかくに権利けんりやそれにともな利益りえき)をました。朝鮮半島ちょうせんはんとう台湾たいわん植民地しょくみんちにしました。

 第一次世界大戦だいいちじせかいたいせんでは、ドイツりょうだったマリアナ諸島しょとうやパラオ諸島しょとうなどの南洋諸島なんようしょとうを、委任統治いにんとうちばれるやりかた支配しはいするなどして国土こくどひろげました。植民地しょくみんち占領地せんりょうちなどには軍隊ぐんたい駐留ちゅうりゅうし、民間企業みんかんきぎょうなども進出しんしゅつしました。

 さらに、昭和時代しょうわじだいはいると、世界恐慌せかいきょうこうのあおりをけ、日本にっぽん深刻しんこく経済不況けいざいふきょうおちいりました。凶作きょうさくもあり農村のうそん疲弊ひへいし、自分じぶん土地とちたないひとたちは海外かいがい生活せいかつもとめるようになりました。

 日本にっぽんは1932ねんばかりの国家こっか満州国まんしゅうこく」を中国東北部ちゅうごくとうほくぶにつくり、くに政策せいさくとして土地とちひらく「開拓団かいたくだん」をつのりました。これによりやく27万人まんにん農業移民のうぎょういみんとして満州まんしゅううつみました。そんな歴史れきしがあり、おおくの日本人にっぽんじん海外かいがいにいたのです。

 すぐに帰国きこくできたの?

 太平洋戦争たいへいようせんそう終戦しゅうせん日本にっぽんが受け入れたポツダム宣言せんげんでは、日本軍にほんぐんについては「家庭復帰かていふっき」が明記めいきされ、軍人ぐんじんからさき帰国きこくすることになりました。ただ、ソビエト連邦れんぽう(ソれん)は、旧満州きゅうまんしゅう朝鮮半島北部ちょうせんはんとうほくぶなどに駐留ちゅうりゅうしていた日本兵にほんへいらをシベリアやモンゴルへれてき、強制的きょうせいてきはたらかせました。れてかれ、シベリアなどにかれたひと抑留者よくりゅうしゃ)はやく57まん5000にんおよび、やくまん5000にんくなりました。

 民間人みんかんじんについて日本政府にっぽんせいふ当初とうしょ、そのにとどまり定住ていじゅうさせる方針ほうしんでしたが、その日本にっぽん帰国きこくできるよう態勢たいせいととのえました。

 異国いこくにいた日本人にっぽんじんは、混乱こんらんなかかれました。えや病気びょうきさむさにくるしみました。途中とちゅうくなったひとすくなくありませんでした。1949年末ねんまつまでに軍人ぐんじんふくやく624万人まんにん日本にっぽん帰還きかんしました。戦後せんご混乱こんらん孤児こじとなり、中国ちゅうごく養父母ようふぼそだてられるなどした「中国残留邦人ちゅうごくざんりゅうほうじん」のようなひとしょうじ、苦労くろうかさねることになりました。

再開されたシベリアからの引き揚げ者を出迎えようと、岸壁で待つ人々=京都府の舞鶴港で1953年12月

実際じっさい体験たいけんしたひとはなしきました

 旧満州きゅうまんしゅうからげてきた京都府きょうとふ黒田雅夫くろだまさおさん(88)のはなし機会きかいがありました。

 当時とうじさいだった黒田くろださんは、せんみなと目指めざし、ソれん兵士へいし地元じもとひとなどにつからないよう、よる移動いどうしました。女性じょせいちゃわんのかけらでかみをそいで変装へんそうしました。やく300キロメートルをあるくなどして1945ねんがつ、ようやく日本人にっぽんじん収容所しゅうようじょにたどりきました。

 栄養失調えいようしっちょうくなったひとたちがかさなったよこで、食事しょくじ用意よういをしました。ふゆあいだ祖父そふははくなり、孤児こじになった黒田くろださんは、路上生活ろじょうせいかつはじめました。「孤児こじになるとられてしまうとおそれ、だれしんじてはいけないとおもった」そうです。その後保護ごほごされ、46ねんがつ日本にっぽんげ、のち父親ちちおやとも再会さいかいできました。

 黒田くろださんは17年前ねんまえから、長男ちょうなん一緒いっしょに、体験たいけんつたえる活動かつどうをしています。ほんにもまとめました。「80ねんたっても、おおくのひとこころおおきなきずっています。戦争せんそうはダメだと、いのちあるかぎつたえていく」とはなしました。

 もっとりたいひと

 もっとりたいひとけて、関係かんけいする博物館はくぶつかんほん紹介しょうかいします。

 東京とうきょう新宿しんじゅくにある「帰還者きかんしゃたちの記憶きおくミュージアム」では、抑留よくりゅうされたひとたちがらした収容所しゅうようじょでのきびしい生活せいかつ様子ようすや、せんなか様子ようすを、それぞれ再現さいげんした展示てんじることができます。体験談たいけんだん書籍しょせき映像えいぞうなどの資料しりょう充実じゅうじつしています。

 また、日本海側にほんかいがわにありこうひとつだった京都きょうと舞鶴まいづるでは、シベリア抑留者よくりゅうしゃしゃむかれました。「舞鶴引揚記念館まいづるひきあげきねんかん」は、シベリア抑留よくりゅうや、市民しみんによるしゃ出迎でむかえの様子ようすなどを紹介しょうかいしています。げの歴史れきしをはじめ、館内かんない資料しりょうなどを中学生ちゅうがくせいらが説明せつめいする「学生語がくせいかた活動かつどうさかんです。

 ほんでは、藤原ふじわらていさんの「ながれるほしきている」などがられています。みなさんのまち図書館としょかんには、地域ちいきひとげなどの体験たいけんをつづった記録きろくがあるかもしれません。ぜひ、ってみてください。

京都府の舞鶴港は、1958年の引き揚げ業務終了までに、シベリア抑留者など約66万人の引き揚げ者を受け入れました。その歴史を伝える「舞鶴引揚記念館」では、中高大学生が「学生語り部」として、史実や展示内容を来館者に解説する活動をしています=京都府舞鶴市で2024年5月

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 戦後せんご80ねん今年ことし戦争体験せんそうたいけんつたえる全国ぜんこくの13施設しせつつくる「全国関連施設ぜんこくかんれんしせつネットワーク会議かいぎ」が各施設かくしせつ紹介しょうかいする「平和へいわのことミュージアムガイド」を製作せいさくしました

帰還者きかんしゃたちの記憶きおくミュージアムのサイト(https://www.heiwakinen.go.jp/about/pamphlet/)からもダウンロードできます

(2025ねんがつ10日とおか毎日小学生新聞まいにちしょうがくせいしんぶんより)

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