親と離れ、空襲のない田舎に移住することを学童疎開と言います。子どもたちはさみしさや空腹に耐えながらどのように暮らしたのでしょう。記者の母も学童疎開を経験しました。残された「よっちゃん」(母の愛称)の記録から、その生活や、送り出した親の思いをたどります。【笹子靖】(「Newsがわかる2025年8月号」より)
一人娘思う筆マメな父
「よっちゃん」こと石井芳枝(2011年に78歳で死去)は、東京都足立区の寺地国民学校6年生だった1944年8月14日、湯田中温泉で知られる長野県平穏村(現在の山ノ内町)へ集団疎開しました。児童100人が旅館に分かれて泊まり、地元の学校などで授業を受けました。
記者の祖父でよっちゃんの父、石井周吉(当時48歳)は、何通もの手紙を疎開先の一人娘、よっちゃんに送っていました。母はそれを大切にとっていました。
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周吉が疎開先に送った手紙。粗末なはがきや便せんにびっしり書かれていた
無事につきましたか。汽車の中でみんなうれしかったでしょう。今後は一生懸命、先生の教えを守って勉強しなさい。体もうんと鍛えて、お国のお役にたつようにしなくてはなりません。とてもいい所で、うちにいるより面白いでしょう。きょう少国民新聞(現在の「毎日小学生新聞」の戦争中の題号)を送りました。(8月15日ごろ)
母の疎開直後、祖父が送った手紙です。「お国のお役にたつように」は、軍国主義の時代、すべての国民に求められた心構えでした。母は「少国民新聞」を読んでいました。「少国民」とは当時の小学生のことです。(笹子記者)
写真は母が疎開当時利用した長野電鉄湯田中駅の旧駅舎で、現在は文化財として保存されています。湯田中駅は長野市と湯田中温泉を結ぶ約33キロの終着駅で、疎開した旅館はすぐ近くにありました
このあいだは大変おじゃましました。夜行列車で翌朝、家についたのは8時ごろでした。リンゴも無事で近所に分けてあげました。お勉強はいかがですか。算数や文章は大いに勉強しなさい。わからないところは先生によく教えていただきなさい。来年は女学校ですから自習時間にはあまり遊ばず、一生懸命やりなさい。湯田中は山の眺めがよいですから、どっさり文章に書いてごらんなさい。短歌も作ってみなさい。書いたらおとうちゃんに送ってください。(9月5日)
母が疎開に行ってまもなく祖父は面会に行ったようです。東京に帰って出した手紙は便せん6枚の長さ。湯田中での感想や母の勉強について細かく書いています。娘と離れて寂しいのか、文章や短歌を送ってほしいと書いています。母の家は牛乳を生産する酪農家で、両親と祖母の4人家族でした。(笹子記者)
母の自宅があった荒川左岸。戦前は河川敷に多くの酪農家があった。中央奥の塔は東京スカイツリー=東京都足立区本木南町で6月6日
大変寒くなりました。山々もそろそろ色が変わり、よっちゃんの身の回りにもひしひし迫るものがあるでしょう。気候の変わりめですから、からだに気をつけなさい。おばあちゃんが行きますから、先生によろしくお伝えください。ジャガイモを持って行きましたから仲良く分けて食べてください。(10月16日)
疎開先も食料事情はよくありませんでした。面会の時にイモや豆、栗などを持って行ったようです。子どもたちはいつも空腹だったはずですが、資料館でほかの家族の手紙を読んでも「おなかがすいた」などと書いたものはありませんでした。まわりの雰囲気で、本音を書きにくかったのかもしれません。湯田中では地元産のリンゴがおやつで、温泉地なのでお風呂には毎日入れたようです。(笹子記者)
写真は足立区立郷土博物館が展示している疎開先での食事例の模型です。1食は大豆入りのご飯かコメの少ないおかゆに、具のないみそ汁とつけもの程度。魚や肉は、塩じゃけや肉ジャガが月に1、2度出るぐらいでした
東京の方へ敵米(アメリカ軍のこと)のB29型機が1機あるいは2機ぐらい偵察に来ました。別に爆弾投下はなかったから被害はなかったよ。日ごろの防空訓練によって、その態勢はとてもめざましいものがありました。(日付不明)
1944年11月以降、民間人を巻き込む無差別爆撃による空襲が激しくなりました。手紙はその前のものですが、アメリカの爆撃機B29が偵察に来たと伝えています。祖父は空襲に備える地域の警防団員で、被害を防ぐ態勢を自慢しています。(笹子記者)
写真は東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区)が展示しているB29の模型です。B29はアメリカ軍の長距離爆撃機で、1944年以降、日本各地を爆撃しました。1945年8月には、広島、長崎に原爆を投下しました
戦争を生きた人を想像する
戦争を経験した人から直接、話を聞ける機会はもう多くはありません。しかし、当時を知るきっかけは「よっちゃんの手紙」のように身近にあるかもしれません。今回、記者はこの手紙を手がかりに、新たな事実に出合いました。
◆手紙の住所から
母の実家が酪農を営み、小さいころに長野県の湯田中温泉に疎開していたことは聞いていました。でも、詳しい場所は知りませんでした。残された手紙の住所をインターネットに打ち込むと、おおまかな場所がすぐにわかりました。自宅は東京都足立区の荒川左岸にあり、通っていた国民学校もすぐ近くでした。
◆一番知りたかったこと
多くの自治体には、その地域の歴史資料などを展示する施設があります。記者は足立区立郷土博物館に足を運びました。
見せてもらった資料から、母たち100人が湯田中温泉へと出発した日付、疎開先の旅館の名前がわかりました。母の同級生で、私も会ったことがある男性の手紙や、母の実家の「石井牧場」は乳牛を約30頭飼っており、地域には約30の酪農家があったという資料も見つかりました。
そして一番知りたかったこと、母が疎開先から帰ってきた日付が判明しました。
母の家の近所にあった牧場。写真右上の人は牧場主=足立区立郷土博物館所蔵
◆よっちゃんの悲しみ
よっちゃんのお父ちゃんで私の祖父、周吉は1945年4月、城北大空襲で命を落としました。母の母校も全焼しました。
このとき母はどこにいたのか、生きているうちに語ることはありませんでしたが今回、郷土博物館でその手がかりを見つけました。6年生は卒業式のため、2月末に疎開先から戻っていたのです。
よっちゃんは自宅で空襲に遭い、父親を亡くしました。その悲しみに初めて、想像をめぐらせました。
城北大空襲の犠牲者の追悼会=東京都豊島区で4月13日
◆学童疎開船「対馬丸」の沈没
学童疎開をめぐり、忘れてはならない事件があります。約1800人を乗せた学童疎開船「対馬丸」の沈没です。
1944年8月22日夜、アメリカ軍の沖縄上陸に備え、子どもたちを長崎へ移住させる最中のことでした。鹿児島・トカラ列島の悪石島沖でアメリカ軍の潜水艦による魚雷攻撃を受けたのです。子ども784人を含む1400人以上が亡くなる大惨事でした。
沈没した対馬丸
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よっちゃんへ お父ちゃんより 手紙でたどる学童疎開
https://www.newsgawakaru.com/news/2508/06_07