縄文人はスーパースター!?【月刊Newsがわかる11月号】

よっちゃんへ お父ちゃんより 手紙でたどる学童疎開

親おやと離はなれ、空くう襲しゅうのない田舎いなかに移い住じゅうすることを学がく童どう疎そ開かいと言いいます。子こどもたちはさみしさや空くう腹ふくに耐たえながらどのように暮くらしたのでしょう。記き者しゃの母ははも学がく童どう疎そ開かいを経けい験けんしました。残のこされた「よっちゃん」(母ははの愛あい称しょう)の記き録ろくから、その生せい活かつや、送おくり出だした親おやの思おもいをたどります。【笹ささ子こ靖やすし】(「Newsがわかる2025年8月号」より)

 一人ひとり娘むすめ思おもう筆ふでマメな父ちち

 「よっちゃん」こと石いし井い芳よし枝え(2011年ねんに78歳さいで死し去きょ)は、東とう京きょう都と足あ立だち区くの寺てら地じ国こく民みん学がっ校こう6年ねん生せいだった1944年ねん8月 がつ14じゅうよっ日か、湯ゆ田だ中なか温おん泉せんで知しられる長なが野の県けん平ひら穏お村むら(現げん在ざいの山やまノ内うち町まち)へ集しゅう団だん疎そ開かいしました。児じ童どう100人にんが旅りょ館かんに分わかれて泊とまり、地じ元もとの学がっ校こうなどで授じゅ業ぎょうを受うけました。

 記き者しゃの祖そ父ふでよっちゃんの父ちち、石いし井い周しゅう吉きち(当とう時じ48歳さい)は、何なん通つうもの手て紙がみを疎そ開かい先さきの一人ひとり娘むすめ、よっちゃんに送おくっていました。母はははそれを大たい切せつにとっていました。

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周吉が疎開先に送った手紙。粗末なはがきや便せんにびっしり書かれていた
無ぶ事じにつきましたか。汽き車しゃの中なかでみんなうれしかったでしょう。今こん後ごは一いっ生しょう懸けん命めい、先せん生せいの教おしえを守まもって勉べん強きょうしなさい。体からだもうんと鍛きたえて、お国くにのお役やくにたつようにしなくてはなりません。とてもいい所ところで、うちにいるより面おも白しろいでしょう。きょう少しょう国こく民みん新しん聞ぶん(現げん在ざいの「毎まい日にち小しょう学がく生せい新しん聞ぶん」の戦せん争そう中ちゅうの題だい号ごう)を送おくりました。(8月 がつ15日にちごろ)

 母ははの疎そ開かい直ちょく後ご、祖そ父ふが送おくった手て紙がみです。「お国くにのお役やくにたつように」は、軍ぐん国こく主しゅ義ぎの時じ代だい、すべての国こく民みんに求もとめられた心こころ構がまえでした。母ははは「少しょう国こく民みん新しん聞ぶん」を読よんでいました。「少しょう国こく民みん」とは当とう時じの小しょう学がく生せいのことです。(笹子記者ささこきしゃ)

写真は母が疎開当時利用した長野電鉄湯田中駅の旧駅舎で、現在は文化財として保存されています。湯田中駅は長野市と湯田中温泉を結ぶ約33キロの終着駅で、疎開した旅館はすぐ近くにありました
このあいだは大たい変へんおじゃましました。夜や行こう列れっ車しゃで翌よく朝あさ、家いえについたのは8時じごろでした。リンゴも無ぶ事じで近きん所じょに分わけてあげました。お勉べん強きょうはいかがですか。算さん数すうや文ぶん章しょうは大おおいに勉べん強きょうしなさい。わからないところは先せん生せいによく教おしえていただきなさい。来らい年ねんは女じょ学がっ校こうですから自じ習しゅう時じ間かんにはあまり遊あそばず、一いっ生しょう懸けん命めいやりなさい。湯ゆ田だ中なかは山やまの眺ながめがよいですから、どっさり文ぶん章しょうに書かいてごらんなさい。短たん歌かも作つくってみなさい。書かいたらおとうちゃんに送おくってください。(9月がつ5いつ日か)

 母ははが疎そ開かいに行いってまもなく祖そ父ふは面めん会かいに行いったようです。東とう京きょうに帰かえって出だした手て紙がみは便びんせん6枚まいの長ながさ。湯ゆ田だ中なかでの感かん想そうや母ははの勉べん強きょうについて細こまかく書かいています。娘むすめと離はなれて寂さびしいのか、文ぶん章しょうや短たん歌かを送おくってほしいと書かいています。母ははの家いえは牛ぎゅう乳にゅうを生せい産さんする酪らく農のう家かで、両りょう親しんと祖そ母ぼの4人にん家か族ぞくでした。(笹子記者ささこきしゃ)

母の自宅があった荒川左岸。戦前は河川敷に多くの酪農家があった。中央奥の塔は東京スカイツリー=東京都足立区本木南町で6月6日
大たい変へん寒さむくなりました。山やま々やまもそろそろ色いろが変かわり、よっちゃんの身みの回まわりにもひしひし迫せまるものがあるでしょう。気き候こうの変かわりめですから、からだに気きをつけなさい。おばあちゃんが行いきますから、先せん生せいによろしくお伝つたえください。ジャガイモを持もって行いきましたから仲なか良よく分わけて食たべてください。(10月 がつ16日にち)

 疎そ開かい先さきも食しょく料りょう事じ情じょうはよくありませんでした。面めん会かいの時ときにイモや豆まめ、栗くりなどを持もって行いったようです。子こどもたちはいつも空くう腹ふくだったはずですが、資し料りょう館かんでほかの家か族ぞくの手て紙がみを読よんでも「おなかがすいた」などと書かいたものはありませんでした。まわりの雰ふん囲い気きで、本ほん音ねを書かきにくかったのかもしれません。湯ゆ田だ中なかでは地じ元もと産さんのリンゴがおやつで、温おん泉せん地ちなのでお風ふ呂ろには毎まい日にち入はいれたようです。(笹子記者ささこきしゃ)

写真は足立区立郷土博物館が展示している疎開先での食事例の模型です。1食は大豆入りのご飯かコメの少ないおかゆに、具のないみそ汁とつけもの程度。魚や肉は、塩じゃけや肉ジャガが月に1、2度出るぐらいでした
東とう京きょうの方ほうへ敵てき米べい(アメリカ軍ぐんのこと)のBビー29型がた機きが1機きあるいは2機きぐらい偵てい察さつに来きました。別べつに爆ばく弾だん投とう下かはなかったから被ひ害がいはなかったよ。日ひごろの防ぼう空くう訓くん練れんによって、その態たい勢せいはとてもめざましいものがありました。(日ひ付づけ不ふ明めい)

 1944年ねん11月がつ以い降こう、民みん間かん人じんを巻まき込こむ無む差さ別べつ爆ばく撃げきによる空くう襲しゅうが激はげしくなりました。手て紙がみはその前まえのものですが、アメリカの爆ばく撃げき機きBビー29が偵てい察さつに来きたと伝つたえています。祖そ父ふは空くう襲しゅうに備そなえる地ち域いきの警けい防ぼう団だん員いんで、被ひ害がいを防ふせぐ態たい勢せいを自じ慢まんしています。(笹子記者ささこきしゃ)

写真は東京大空襲・戦災資料センター(東京都江東区)が展示しているB29の模型です。B29はアメリカ軍の長距離爆撃機で、1944年以降、日本各地を爆撃しました。1945年8月には、広島、長崎に原爆を投下しました
 戦争せんそうを生いきた人ひとを想像そうぞうする

 戦せん争そうを経けい験けんした人ひとから直ちょく接せつ、話はなしを聞きける機き会かいはもう多おおくはありません。しかし、当とう時じを知しるきっかけは「よっちゃんの手て紙がみ」のように身み近ぢかにあるかもしれません。今こん回かい、記き者しゃはこの手て紙がみを手てがかりに、新あらたな事じ実じつに出で合あいました。

◆手紙てがみの住所じゅうしょから

 母ははの実じっ家かが酪らく農のうを営いとなみ、小ちいさいころに長なが野の県けんの湯ゆ田だ中なか温おん泉せんに疎そ開かいしていたことは聞きいていました。でも、詳くわしい場ば所しょは知しりませんでした。残のこされた手て紙がみの住じゅう所しょをインターネットに打うち込こむと、おおまかな場ば所しょがすぐにわかりました。自じ宅たくは東とう京きょう都と足あ立だち区くの荒あら川かわ左さ岸がんにあり、通かよっていた国こく民みん学がっ校こうもすぐ近ちかくでした。

◆一番いちばん知しりたかったこと

 多おおくの自じ治ち体たいには、その地ち域いきの歴れき史し資し料りょうなどを展てん示じする施し設せつがあります。記き者しゃは足あ立だち区く立りつ郷きょう土ど博はく物ぶつ館かんに足あしを運はこびました。

 見みせてもらった資し料りょうから、母ははたち100人にんが湯ゆ田だ中なか温おん泉せんへと出しゅっ発ぱつした日ひ付づけ、疎そ開かい先さきの旅りょ館かんの名な前まえがわかりました。母ははの同どう級きゅう生せいで、私わたしも会あったことがある男だん性せいの手て紙がみや、母ははの実じっ家かの「石いし井い牧ぼく場じょう」は乳にゅう牛ぎゅうを約やく30頭とう飼かっており、地ち域いきには約やく30の酪らく農のう家かがあったという資し料りょうも見みつかりました。

 そして一いち番ばん知しりたかったこと、母ははが疎そ開かい先さきから帰かえってきた日ひ付づけが判はん明めいしました。

母の家の近所にあった牧場。写真右上の人は牧場主=足立区立郷土博物館所蔵

◆よっちゃんの悲かなしみ

 よっちゃんのお父とうちゃんで私わたしの祖そ父ふ、周しゅう吉きちは1945年ねん4月がつ、城じょう北ほく大だい空くう襲しゅうで命いのちを落おととしました。母ははの母ぼ校こうも全ぜん焼しょうしました。

 このとき母はははどこにいたのか、生いきているうちに語かたることはありませんでしたが今こん回かい、郷きょう土ど博はく物ぶつ館かんでその手てがかりを見みつけました。6年ねん生せいは卒そつ業ぎょう式しきのため、2月がつ末まつに疎そ開かい先さきから戻もどっていたのです。

 よっちゃんは自じ宅たくで空くう襲しゅうに遭あい、父ちち親おやを亡なくしました。その悲かなしみに初はじめて、想そう像ぞうをめぐらせました。

城北大空襲の犠牲者の追悼会=東京都豊島区で4月13日
城北大空襲   1945年4月13日深夜から14日未明にかけて、アメリカ軍のB29爆撃機330機が東京都北部を襲った空襲。アメリカ軍は兵器工場を狙ったとしているが、民間人約2500人が亡くなる無差別爆撃だった。

◆学童疎開船がくどうそかいせん「対馬丸つしままる」の沈没ちんぼつ

 学がく童どう疎そ開かいをめぐり、忘わすれてはならない事じ件けんがあります。約やく1800人にんを乗のせた学がく童どう疎そ開かい船せん「対馬つしま丸まる」の沈ちん没ぼつです。

 1944年ねん8月 がつ22日にち夜よる、アメリカ軍ぐんの沖おき縄なわ上じょう陸りくに備そなえ、子こどもたちを長なが崎さきへ移い住じゅうさせる最さい中ちゅうのことでした。鹿か児ご島しま・トカラ列れっ島とうの悪あく石せき島じま沖おきでアメリカ軍ぐんの潜せん水すい艦かんによる魚ぎょ雷らい攻こう撃げきを受うけたのです。子こども784人にんを含ふくむ1400人にん以い上じょうが亡なくなる大だい惨さん事じでした。

沈没した対馬丸
対馬丸  対馬丸は軍艦ではなく、作られて30年の古い貨物船でした。速度が遅いために狙われたとみられています。

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