10代のうちに強くする! 骨のチカラ【月刊ニュースがわかる5月号】

絶対はある? 絶対って何? <子どもの哲学>

 誰もが一度は抱いたことのあるような問いについて、4人の哲学者が、子どもたちとともに考え進めていくという形で書かれた『子どもの哲学 考えることをはじめた君へ』(毎日新聞出版刊)。大人も子どももいっしょになって、ゆっくりと考えてみませんか。本書から一部をご紹介します。本書のもとになった「てつがくカフェ」は、毎日小学生新聞で毎週木曜日に連載中です。

絶対の出来事は存在しない……コーノくん 

 「絶対」ってなんだろう。何かを考えるときには、その言葉がどんなものを指しているかを考えるよりも前に、その言葉がどういうときに使われるかを考えてみたほうがいいよ。君はどんなときに「絶対」という言葉を使うかな? 「日本のサッカーチームは絶対に優勝できない」と言うときには、「優勝の可能性はゼロだ」という意味だよね。

 でも、この場合「絶対」という言い方は大袈裟すぎて、ほんとうは正しくない。日本のチームはたしかにあまり強くはないかもしれないけれど、相手チームの選手がみんな病気になってレギュラー選手が誰も出られなくなれば、日本が勝つ可能性もあるよね。

 では、明日も太陽が昇るというのは絶対かな? 昇る可能性はとても高いと思うけれど、もしかすると今日、太陽が爆発しちゃうかもしれない。だから、私は世界には絶対――つまり可能性が0パーセントもしくは、その逆に100パーセントということはないと考える。限りなく0パーセントに近いとか、限りなく100パーセントに近いということはあっても、ね。

絶対の事実はちょっとだけある……ツチヤくん 

 コーノくんの答えは「文字通りの意味での絶対はない」ってことだと思うけれど、そういう意見を聞くたびに、僕はある哲学者の言葉を思い出す。その哲学者によると、夢のなかでさえ疑いえない絶対確実なことがある。それはたとえば「四角形の辺は四つである」ということなんだ。もっとも彼はこう言った直後に、もしかすると全能である悪い神様が僕たちをだましていて、僕たちが四角形の辺の数を数えるたびに、数え間違いをするようにさせているのかもしれないって言うんだけどね。

 でも僕は「四角形の辺は四つである」ということは、太陽が爆発しようが宇宙がひっくり返ろうが、絶対に成り立つことだと思う。だって、このことがほんとうは間違いで、四角形の辺の数はほんとうは四つではないんだと言われても、それが何を意味しているのかさっぱり理解できないもの。四角形というのは「四つの辺を持つ図形」という意味なので、それがほんとうは四以外の辺を持つなら、四角形の定義と矛盾してしまう。そして、僕たちは、矛盾している文章は(少なくとも文字通りには)意味を全く理解することができないんだ。

 なので僕は、もし仮に全能の悪い神様がいて、ほんとうは辺が五つある図形なのに、僕たちに辺が四つであるように見せて数え間違いをさせていたとしても、そのことから「四角形の辺はじつは四つではなかった」という結論は出ないと思う。そこから出てくる結論は、「僕たちが四角形だと思っていた図形はほんとうは五角形だった」ということで、その場合でも「五角形の辺は五つである」ということは、何があっても絶対確実に成り立つだろう。

 だから僕は、文字通りの「絶対」はやっぱりあって、こうした四角形の話がその例だと思うんだけど、あなたはどう思うかな? 

 ほかに、「明日は晴れか、晴れじゃないかのどちらかだ」というものも文字通りの「絶対」だと思う。むしろ僕には、なんでこういう絶対確実なことが世のなかに「ちょっとだけ」あるのか、ということのほうが不思議だ。

絶対だという思い込み……ムラセくん 

 「絶対」という言葉って、なんだかえらそうで嫌な感じがするよね。コーノくんの話のなかにあった、「絶対優勝できない」と言う人に「でも可能性はゼロじゃないよね?」と言ったとしよう。きっと怒られてしまうね。こういうふうに「絶対」という言葉を使われると、ちょっと嫌な感じがするよね。その理由は、その人が相手の意見を聞かずに自分が正しいと思って、「絶対」と言ってしまっているからだ。だから、この世に絶対なんかない。そんなふうにも考えたくなる。

 でも、「絶対がある」ことと「絶対だと思い込む」ことは別だ。ツチヤくんに、僕が「でも、図形を見間違えているんじゃなくて、数の数え方自体をみんながみんな間違えていて、ほんとうの四角形の辺は四つじゃないかもしれないよ」と言ったとしよう。変な疑問だけれど、きっといろいろと考えてくれると思う。それは、ツチヤくんが自分の考えを「絶対」だとは思い込んでいないからだ。

 僕は、絶対を探るにはこういうふうにしてほかの人と協力したり議論したりすることが必要で、いっしょに絶対を探すことは、「絶対がある」という共通の考えがあるからできるんじゃないかと思っている。だって絶対がなかったら、協力なんかせずに、それぞれが好き勝手に考えればいいことになるからだ。「どうせ絶対なんかないんだし、君の好きなように考えなよ」なんて言われてしまうかもしれない。その意味では、「絶対」の存在は、人と人が協力するときの接着剤みたいな役割を果たすものでもあるんだ。

まとめ いつかは絶対の答えにたどり着けるかな……ゴードさん 

 友だちとおしゃべりしていると、「これが絶対正しいよ」とか「こうすれば絶対うまくいくよ」なんて言うことがある。でもほんとうに「絶対」かというと、そんなことはなくて、やっぱり間違っていたり失敗してしまったりすることも、よくあるよね。それなら、ほんとうのほんとうに絶対正しいことって、あるかな。

 コーノくんは、そういうのは大袈裟に言ってしまっているだけで、ほんとうの絶対――つまり可能性が100パーセントということはないと言っている。でもツチヤくんは、絶対に確実なこともあると言っているね。どちらが正しいのかな。たしかにツチヤくんが挙げている例は、いつも必ず正しいように思える。でも「明日は晴れか、晴れじゃないかのどちらかだ」なんてそんなのあたりまえだし、なんの意味もないことを言っているような気がしない? もう少しちゃんと意味があって面白い、絶対に正しいことってないのかな。

 ムラセくんは、人々は「きっと絶対に正しいことがあるはずだ」と信じているのではないかと考えている。なぜかというと、自分の考えを絶対だと思わずに、みんなで協力して考えたり、話し合ったりしているから。たしかに、どこかに絶対に正しい一つの答えがあると信じていなければ、みんなでそれを考えたりしないよね。あなたもきっと正しい答えがあるはずだと信じているから、この本に出てくる問いについて考えたり、みんなの答えを読んだりしているのではないかな。

 それなら、みんなで長い時間をかけて話し合って、じっくり考えていけば、いつかは一つの答えにたどり着くと思う? それとも、やっぱり絶対に正しい答えなんて見つからないと思う?

<4人の哲学者をご紹介>

コーノくん 河野哲也(こうの・てつや)

慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は哲学・倫理学・教育哲学。現在、立教大学文学部教育学科教授。NPO法人「こども哲学おとな哲学アーダコーダ」(副代表理事)などの活動を通して哲学の自由さ、面白さを広めている。

ツチヤくん 土屋陽介(つちや・ようすけ)

千葉大学大学院社会文化科学研究科博士課程満期退学。博士(教育学)(立教大学)。専門は子どもの哲学(P4C)・応用哲学・現代哲学。現在、開智国際大学教育学部准教授。

ムラセくん 村瀬智之(むらせ・ともゆき)

千葉大学大学院人文社会科学研究科修了。博士(文学)。専門は現代哲学・哲学教育。現在、東京工業高等専門学校一般教育科准教授。

ゴードさん 神戸和佳子(ごうど・わかこ)

東京大学大学院教育学研究科博士課程満期退学。専門は哲学教育。現在、長野県立大学ソーシャル・イノベーション研究科講師。中学校・高等学校等での対話的な哲学の授業のほか、哲学カフェ、哲学相談などの実践・研究も行っている。

 

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