誰もが一度は抱いたことのあるような問いについて、4人の哲学者が、子どもとともに考え進めていくという形で書かれた『子どもの哲学 考えることをはじめた君へ』(毎日新聞出版刊)。大人も子どももいっしょになって、ゆっくりと考えてみませんか。本書から一部をご紹介します。
子どもの仕事場……コーノくん
この質問(なんのために学校はあるの?)を考えたということは、君は、学校を面白くないと思っているんだね。だってなんで遊園地はあるのか、とは聞かないでしょう? 遊園地は面白いから、そんな疑問を感じる必要はないんだ。
でも君は、なんのために会社や工場や田畑があるのか、とも聞かないよね。そのどれもが「仕事場」で、仕事をしないと生活できないということを君は知っているから。
じつは学校って、そんな「仕事場」の一種なんだと思う。工場でもじっさいに作業をする前に、最初に機械の仕組みや材料の扱い方を勉強するでしょう? 学校の勉強はそういう仕事のための準備なんだと思う。大人のしなければならない仕事はいろいろあって、会社や工場で働くだけではなく、選挙のときには投票するし、場合によっては選挙に出たりもする。役所で手続きすることも必要になるし、裁判員といって裁判で判決を出したりもする。そうしたいろいろの仕事の最初の部分を学校でやっているだけなんだ。だから、学校でやることを「勉強」なんて呼ばずに「仕事」だって言えばいいのにね。
それにしても学校って、大人になったらけっしてやらないことをやっているよね。それってむだだと思うな。もしそうじゃないのなら、大人になったときにどんなふうに役に立つのか、もっと教えてくれればいいのにね。
ふだんと違う特別な場所……ムラセくん
学校と仕事場はだいぶ違う気がするなあ。だって、仕事場や家にないものが学校にはたくさんあるもの。
学校には図書館があって、本がたくさんあるよね。これだけの本を一人で集めようと思ったら大変だ。音楽室もあって、そこにはいろいろな楽器がある。小学生のときにシンバルを演奏したことがあるけれど、シンバルをもっている家なんてなかなかない。プールだって、図画工作室の機械だって、僕のまわりでは学校にしかないし、学校ではじめて見て、使い方を習ったよ。もちろん、シンバルだってそうだ。
僕が哲学の本をはじめて読んだのは学校の図書館だったし、友だちも学校で会って仲良くなった人が多い。勉強だって、スポーツだって、友だちから教えてもらってできるようになったことが多い。だから、学校ってふだんは出会えないものや人に触れて、それを詳しく知ることができる、そのための場所なんじゃないかな。仕事に必要なことなんて、仕事をはじめてから教えてもらえばいい。
え? でもそんなふうに友だち同士で教え合ったりしていないし、君の家には本がたくさんあるって?
もし学校でしかできないことが君にとってほんとうに意味のないことだったり、先生が学校でしかできないことを授業でやってくれないのだとしたら、君にとって学校はいらないし、もちろん、行く必要なんてないと思う。学校がほかのどこにもない「特別な場所」だってことは、大人になってから僕は知ったけれど、特別だからって、大切だとは限らないからね。
社会のミニチュア模型……ツチヤくん
たしかに学校にあるものって、学校以外ではなかなかお目にかかれないものが多いよね。でも、そういう珍しいものがたくさんあるくせに、学校にはプロが仕事で使うような「ほんもの」の道具や設備はほとんどない。
理科室の実験器具は、科学者が研究室で使うものほど本格的ではないし、家庭科室の調理設備は、レストランの厨房にはまったくかなわない。英語の先生はたいてい日本人だし、児童会の活動だって国会や選挙の真似ごとみたいなもの。そう考えると学校って、みんなで「おままごと」をしているみたいだね。
もしかすると学校は、ほんものの仕事じゃなくて仕事の「おままごと」をするための場所なのかもしれない。デパートの食品売り場の試食コーナーみたいに、いろいろな仕事を「お試し版」でとにかくたくさんつまみ食いして、どれが自分にいちばん合うのかを探す場所なのかもしれない。そう考えると、学校は社会のミニチュア模型のようなものかもね。
だとしたら発想を逆転させて、社会全体を学校にするというアイデアはどうだろう。たとえば、家庭科で料理づくりを勉強するときにはじっさいにレストランを訪れてコックさんといっしょに働きながら教えてもらったり、国語で漢字を勉強するときには本屋さんへ行って店員さんといっしょに本棚の整理をしながら漢字の読み方を教えてもらったりするんだ。
学校という特別な場所で「おままごと」を通して学ぶのではなく、社会でじっさいに働きながら学ぶようにするってこと。そうすれば、毎日別の場所に行って、たくさんの人たちに教わることができるから、勉強にあきることもなくなるんじゃないかな。
まとめ どうして毎日学校に行くのかな……ゴードさん
学校に通いはじめるときって、自分から「行きたい」と言ったり、「行くぞ」と決めたりしたわけではないよね。6歳ぐらいになると、突然「子どもが学校に行くものなんだよ」「あなたはもうすぐ1年生だね」なんて大人に言われて、学校に行きたいと思わなくても、入学式の日がやってくる。学校に行くのが楽しかったとしても、ときどき「それにしても、どうして毎日学校へ行くのかな」と考えてしまうね。
コーノくんは、学校というのは大人がやっている「仕事」の最初の部分――仕事のための準備期間だと言っている。大人が仕事をしなければならないのと同じように、子どもも必ず学校に行かなければならないというんだね。でもムラセくんは、学校は仕事と関係なく もっといろいろなことに出会う場所だと考えている。そして仕事ではないのだから、学校だって行きたくなければ行かなくてもいいとも言っている。どうやら「学校」について考えるときには、大人の「仕事」との関係を考えることが重要なポイントみたい。あなたはどちらの意見に賛成かな。
それからツチヤくんは、コーノくんとムラセくんのどちらが正しかったとしても、学校はなくなってもいいと考えている。それは、仕事のことも仕事以外のことも、学校で教わらなくても社会のなかで学ぶことができるからだって。これはほんとうかな?
学校に行かないとどうしても学べないことってないのかな? もしないのだとしたら、どうして学校なんてものが世界にはこんなにたくさんあって、多くの子どもが学校に通うんだろうね。何か、まだほかにも理由があるのかな。
***著者紹介***
コーノくん 河野哲也(こうの・てつや)
慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は哲学・倫理学・教育哲学。現在、立教大学文学部教育学科教授。NPO法人「こども哲学おとな哲学アーダコーダ」(副代表理事)などの活動を通して哲学の自由さ、面白さを広めている。
ツチヤくん 土屋陽介(つちや・ようすけ)
千葉大学大学院社会文化科学研究科博士課程満期退学。博士(教育学)(立教大学)。専門は子どもの哲学(P4C)・応用哲学・現代哲学。現在、開智国際大学教育学部准教授。
ムラセくん 村瀬智之(むらせ・ともゆき)
千葉大学大学院人文社会科学研究科修了。博士(文学)。専門は現代哲学・哲学教育。現在、東京工業高等専門学校一般教育科准教授。
ゴードさん 神戸和佳子(ごうど・わかこ)
東京大学大学院教育学研究科博士課程満期退学。専門は哲学教育。現在、長野県立大学ソーシャル・イノベーション研究科講師。中学校・高等学校等での対話的な哲学の授業のほか、哲学カフェ、哲学相談などの実践・研究も行っている。
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