戦後80年の節目に硫黄島(東京都小笠原村)が注目されています。太平洋戦争末期、日本とアメリカの両軍が激突し、合わせておよそ2万7000人が戦死した激戦地です。新聞などのニュースのほか、映画や小説でもたびたび取り上げられてきました。近年は、あまり知られてこなかった元島民の帰島問題が報道されています。戦争が終わって80年もたつのに、なぜ元島民は故郷に帰れないのでしょうか。
東京都心から約1250キロメートル南にある島です。「いおうじま」とも呼ばれています。1891年に日本の領土となり、本土から人が渡って開拓を進めました。農業が盛んで、戦前の最盛期には1000人以上が暮らしていました。元島民によれば、食べ物も豊富で、当時、本土でも珍しかった外国製の自動車があったそうです。
1941年12月の太平洋戦争の開戦後、日本軍はアメリカやイギリスなどの連合国軍を次々と破り、硫黄島よりはるか遠くの地域にまで占領を広げていきました。しかし次第に戦況は悪くなり、アメリカ軍が硫黄島に迫ってきました。44年6月以降は、空襲や軍艦からの艦砲射撃をたびたび受けました。

アメリカ軍は日本の本土への上陸を想定し、そのための中継地点としてこの島が必要でした。太平洋上のサイパンなどマリアナ諸島から大型爆撃機「B29」で本土を攻撃する上でも、護衛の戦闘機の基地などとして手に入れたかったのです。逆に日本としては守らなければならない場所でした。
島の人たちは1944年7月、ほとんどが強制的に本土へ避難(疎開)させられました。45年2月19日にアメリカ軍が上陸し、日本軍が迎え撃ちます。この戦闘は1か月あまり続きました。
日本側は、軍を助けるために島に残された島民も含め、およそ2万人が戦死しました。アメリカ軍も6821人が亡くなりました。疎開した島民は助かりましたが、住み慣れた故郷を離れての生活を強いられ、苦労しました。

島民たちは、戦争が終わっても島へ帰ることはできませんでした。アメリカ軍が基地として占領を続けたからです。
1968年に硫黄島は、他の小笠原諸島とともに日本へ返還されました。小笠原諸島の父島などには住民の帰島が可能になりましたが、硫黄島は帰島が許されませんでした。
翌年、元島民らは「硫黄島帰島促進協議会」という団体を結成し、政府に帰島を求めました。しかし政府は、「火山活動がある」「産業活動が成り立たない」などの理由で認めませんでした。

現在も、元島民は帰島して暮らすことはおろか、先祖のお墓参りや戦没者の慰霊のためであっても自由に島へ渡ることはできません。帰島できるのは東京都が主催するお墓参りなどに限られ、人数も制限されています。
今は、島での土地の権利を所有している元島民や親族がいて、自衛隊がそれを借り上げる形で常駐しています。基地の整備などを請け負う建設会社の民間人も暮らしています。ゴルフ場などの余暇施設もあります。

元島民は「火山活動は戦前からあったが、生活には何の支障もなかった」と証言しています。戦前のように農業などで生活を成り立たせることが困難なのも事実ですが、それは政府が戦争でめちゃくちゃになった島を適切に復興させなかったからです。「帰る・帰らないは元島民に決める権利がある。帰さないのは居住の自由を定めた日本国憲法22条に反する」という指摘もあります。
私(記者)は今年2月、中野洋昌国土交通大臣の記者会見で「帰島を禁じる法的根拠は何ですか」と尋ねました。中野大臣は「土地等の権利を所有する旧島民の方々が帰島されることについて、これをとどめる法的な手段はないと考えております」と答えました。
つまり、法律上は帰ってもよく、政府が「帰らないでほしい」とお願いしているだけです。しかし、人が定住するには港を造ったり電気や水道を通したりして生活基盤を整えなければなりません。でも、元島民が自分たちで整備するには多大なお金が必要ですし、確保できても自由に島へ渡れなければ不可能です。元々、島民が開拓して整備した生活基盤が、国が始めた戦争で破壊されたのですから、新たな基盤整備は国の責任です。硫黄島の帰島問題を解決しなければなりません。
(2025年8月20日毎日小学生新聞より)

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