誰もが一度は抱いたことのあるような問いについて、哲学者が、子どもたちとともに考えていくという形で書かれた「子どもの哲学」シリーズの第2弾『この世界のしくみ 子どもの哲学2』(毎日新聞出版刊)。大人も子どももいっしょになって、ゆっくりと考えてみませんか。本書から一部をご紹介します。本書のもとになった「てつがくカフェ」は、毎日小学生新聞で毎週木曜日に連載中です。
生まれ変わる前の「私」は私? ………ゴードさん
「前世」とは、生まれ変わる前の人生のことだね(ただし、人ではなくネコだったかもしれないし、カエルだったかもしれないけれど)。だから、前世があるかどうかを考えるためには、まず、自分が生まれ変わったのかどうかを考えなければならない。あなたは、自分が何度も生まれ変わっていると思う? それとも、これが最初で最後の人生だと思う?
これを確かめるのはなかなか難しい。なにしろ、仮に生まれ変わっているのだとしても、いまのこの自分が生まれる前のことはまったく覚えていないからね。それに、たとえば私が、千年前に生きていた清少納言の生まれ変わりだったとする。本当にそうだったらなんとなくうれしいような気もするけれど、でもやっぱり、「清少納言」と「ゴードさん」は、まったくの別人、赤の他人だよね。血がつながっているわけでもないし、彼女の文才を受け継ぐことができるわけでもなく、もちろん平安時代の記憶なんてない。だとしたら、「前世の私」はちっとも「私」と関係ないじゃない。そんなの、それも「私」だなんて言えないよ。
でも、何もかもすっかり忘れてしまっただけかもしれないから、絶対に生まれ変わっていないとも言いづらい。はっきり確かめる方法はあるのかな。
自分なのに自分でない…… コーノさん
実は私も子どもの頃、何か大昔の人の生まれ変わりじゃないかと思っていたんだ。よく考えてみると、ゴードさんが言うように、生まれ変わりっておかしな考え方で、矛盾ばかりだ。昔の人が話していた言葉なんて話せないし、その時代の人々や景色や仕事のことなんかも詳しく話せるはずだけど、そんなことはできない。別の体なら、別の感じがしたはずだけど、そういうこともない。だから、実際には、生まれ変わりなんてありえないと、そのころから思っていたんだけど、それでも、ただ何となく、自分は昔の誰かの生まれ変わりなんじゃないかと感じていたんだ。
何でこんなふうに思っていたんだろう。たぶん、それは、自分が自分であって自分でないような感じがしていたからじゃないかな。私は、自分の親の子どもとして、日本のある場所で生まれて育って、どこそこの学校に通っているコーノさんだし、それ以外の人間ではありえない。それはこどもの私でもわかっていたんだ。
だけれど、それでも、自分でないような他の人が、自分の中に住んでいるのではないかと感じていたんだ。それを前世の人と呼んでいたのだと思うんだ。変だよね。でも、いまでも、何か別の誰かが、この時代のこの場所に生まれた自分の体に住みついているだけじゃないのかな、とフッと感じたりするんだよね。そう、ふと感じたり、ちょっと思ったりするだけで、真剣にそう考えているわけじゃないけどね。
「前世」は便利に使える責任逃れの言葉……ツチヤさん
二人とも、「生まれ変わる」ということをよくよく考えてみると、つじつまの合わないことがたくさん見つかるって言っているね。僕も二人の話を聞いているうちに、「前世」ってやっぱりないのかなあという気がしてきたよ。でも、じゃあ、なんでこんなにたくさんの人が、前世の存在をなんとなく信じているんだろう。コーノさんは「自分が自分であって自分でないような感じ」がするからじゃないかって言っているけど、僕はもう少し意地悪に考えてみたい。人が「前世」を考えるのは、それによっていまの自分に言いわけしたり、責任逃れをしたりするためじゃないかな。
たとえばいま、いろんな理由で不幸な出来事が重なって、人生がとてもつらいとする。「こんなにつらいのも全部自分のせいだ」って考えると、ますますつらくなっちゃう。でも、「前世の自分が悪いことをたくさんしたせいで、いまこんなひどい目にあっているんだ」って考えると、少し気が楽になる。ゴードさんも言っているように、前世の自分はしょせんは「他人」なのだから、自分の不幸は自分のせいじゃないって思えるし、他人である「前世の自分」に怒りをぶつけたり、責任を押しつけたりもできる。そうやって心のバランスを取るために、人間は「前世」というものを考え出したのかもしれない。
でもだとしたら、それって本当に問題の解決になってるのかな? なんだか、ちょっと前にはやったアニメで、何でもかんでも「妖怪のせい」にしていたのと似ているね。
★「てつがくカフェ」は毎日小学生新聞で毎週木曜日に連載中
<5人の哲学者をご紹介>
河野哲也(こうの・てつや)
立教大学文学部教育学科教授。専門は哲学、倫理学、教育哲学。NPO法人「こども哲学 おとな哲学 アーダコーダ」副代表理事。著書に『道徳を問いなおす』、『「こども哲学」で対話力と思考力を育てる』、共著に『子どもの哲学』ほか。
土屋陽介(つちや・ようすけ)
開智日本橋学園中学高等学校教諭、開智国際大学教育学部非常勤講師。専門は哲学教育、教育哲学現代哲学。NPO法人「こども哲学 おとな哲学アーダコーダ」理事。共著に『子どもの哲学』、『こころのナゾとき』シリーズほか。
村瀬智之(むらせ・ともゆき)
東京工業高等専門学校一般教育科准教授。専門は現代哲学・哲学教育。共著に『子どもの哲学』、『哲学トレーニング』(1・2巻)、監訳に『教えて!哲学者たち』(上・下巻)ほか。
神戸和佳子(ごうど・わかこ)
東洋大学京北中学高等学校非常勤講師、東京大学大学院教育学研究科博士課程在学。フリーランスで哲学講座、哲学相談を行う。共著に『子どもの哲学』ほか。
松川絵里(まつかわ・えり)
大阪大学コミュニケーションデザイン・センター特任研究員を経て、フリーランスで公民館、福祉施設、カフェ、本屋、学校などで哲学対話を企画・進行。「カフェフィロ」副代表。共著に『哲学カフェのつくりかた』ほか。
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