10代のうちに強くする! 骨のチカラ【月刊ニュースがわかる5月号】

人を殺してしまう人がいるのはどうして?<子どもの哲学>

 誰もが一度は抱いたことのあるような問いについて、4人の哲学者が、子どもたちとともに考え進めていくという形で書かれた『子どもの哲学 考えることをはじめた君へ』(毎日新聞出版刊)。大人も子どももいっしょになって、ゆっくりと考えてみませんか。本書から一部をご紹介します。本書のもとになった「てつがくカフェ」は、毎日小学生新聞で毎週木曜日に連載中です。

仕事の場合もある……ゴードさん

 世のなかには、いろいろな理由で人を殺す人がいる。たとえば誰かを恨んでいて、その人がいなくなってしまえばいいと考える人がいる。あるいは、誰かとケンカをし、腹を立てて、思わず相手が死んでしまうほどの暴力をふるってしまうこともある。また、誰かがもっているお金や地位がほしくて、それを自分のものにするために、人を殺す人もいる。

 このくらいはなんとなく想像できると思うけれど、それだけじゃない。ただ楽しそうだからという理由で人を殺す人もいる。生きることが嫌になってしまったけれど自殺することはできないから、死刑になりたくて人を殺す人もいる。特に理由はないけれど、なんだかむしゃくしゃして、誰でもいいから殺してしまおうとする人もいる。悲しくて怖いことだと思うかもしれないけれど、これはじっさいに起きていることなんだ。

 そして、ほかにもまだ人が人を殺す理由はあるよね。戦争では、勝つために敵の兵士を撃つ。警察官も、犯人がほかの人を殺そうとしていたら、その人を守るために仕方なく犯人を撃つ。また、罪を犯した人に死刑を執行する人もいる。こんなふうに、社会のために、仕事として、人を殺す人もいるよ。

 いろいろな理由があるけれど、もしあなたにも同じ理由ができたとしたら、あなたも人を殺すかな。どう思う? そう考えてみると、私は、なんだかわからなくなってしまうよ。

殺す怖さを越える何かがある……ツチヤくん

 この問いは、じつは僕も答えがまったくわからないんだ。と言っても、もちろんなげやりに答えているわけではないので、なんでわからないのかについて説明してみるね。

 誰かを殺したいほど憎らしく思うことがあるということは、僕にも理解できる。とはいえ、そんなふうに人を心から憎むなんてことは、じっさいにはめったにないことだけれど、たとえば、ある人に徹底的にいじめ抜かれたり、大切な人を目の前で無慈悲に殺されたりしたら、その人を本気で殺したいって思うことは十分ありうるだろう。

 でも、いくらそう強く思ったとしても、その思いからどのようにしてじっさいに「殺す」という行動に至れるのかが、僕には実感としてよくわからない。つまり、どれだけ相手を憎らしくて殺したいと思ったとしても、その思いから自分の身体をほんとうに動かして「殺人」という行為をじっさいに起こせるのかと言われたら、やっぱり僕にはそんなことができる気があまりしないんだ。たぶん僕だったら、人を殺す恐怖心で身体が固まって動けなくなってしまうと思う。

 自殺についても同じで、きっと僕の場合は、いくら深く落ち込んで「死にたい」と思ったとしても、じっさいには身体がすくんでしまって自殺なんてできないんだろうな、と思っている。他人や自分をじっさいに「殺す」というところまでいくためには、このような身体の本能的な拒否反応を抑え込むくらいの何かが必要なはずで、それが何かが僕にはわからないんだ。

それぞれに自分なりの理由がある……ムラセくん

 たしかにツチヤくんが言うように、僕も、じっさいに殺したいと強く思ったとして、殺せるかと言われたら自信はない。でも、変な話だけれど、ほんとうに殺したいのなら、ちゃんと練習をする必要があると思う。兵士だっていきなり戦場に送られるわけじゃない。身体も心も訓練をして、敵を殺せるような人間になってから戦場に行くんだ。

 ゴードさんが言う理由のない殺人の場合は、準備も練習もしようがない。だから、殺人について考えるときにはやっぱり、強い動機(理由)があるかどうか、それはちゃんとした理由になっているかどうか、が重要な分かれ道だ。

 もちろん、ふつうの生活のなかでは人を殺す理由はなかなか生まれない。いくら犯人が自分にはちゃんとした理由があると言っても、まわりの人は納得できないだろう。でも、戦争に参加したり賛成したりする場合など、自分で意識しているかどうかはともかくとして、人は誰かを殺すことは仕方のないことだと思っている。だって、じっさいに自分が兵士となって人を殺すかもしれないし、自分が兵士にならないとしても兵士を支援することになるとわかっているからだ。そうした、殺人に賛成しているときなど、人は、人を殺すための十分な理由があると考えている。ほかに、自分や大切な人が攻撃されて命が危ないと感じているとき、などもそう。

 だとすれば、まわりから見るとちゃんとした理由のないひどい殺人事件に思えても、もしかすると、その犯人は自分の大切な人の身の危険を感じていたのかもしれないね。もちろん、その「感じ」は勘違いかもしれないけど、本人にとっては真剣で、それが殺人をする理由になると思っている。こう考えると、あらゆる戦争も同じような勘違いからはじまるのかもしれないね。

まとめ 誰にでもある可能性の一つ……コーノくん

 この問いを考えた君は、人を殺すような人は自分と全然違う、理解できない人だと思っていない? 自分の家族や友だちのなかには、そんな人はいないと思っているでしょう。それは違うな。

 まず、日本には死刑制度があって、これはつきつめて考えれば、多くの国民が「悪いことをした人のなかには死んだほうがいい人がいる」と思っているからこそ存在している制度なんだ。刑務という人たちがじっさいには死刑を行うのだけれど、ほんとうに死刑を命じているのは国民、つまり君のお父さんやお母さん、近所のおじさん、おばさん、そして私なんだ。

 ゴードさんが言うように、警察官や兵士など誰かを守るために人を殺さなければならない仕事もある。本人たちがやりたくなくても、任務だからやっている。ふつうの人が、任務や義務で人を殺すということはありえるんだ。このことを忘れちゃいけない。

 でも、テレビで大きく報じられるのは、怒りに任せて人を殺す人や、恨みからそうする人だったりする。お金がほしくて人を殺してしまう人もいる。そういう人も、人を殺すことが悪いことだとわかっていないわけじゃない。この人だけはどうしても許せないとか、自分にはそうする権利があると思うから、そうしているんだ。こんなことは考えるだけで恐ろしいことかもしれないけれど、君も家族や大切な人を殺されたら、その犯人に殺意をもつかもしれないよ。

 人を殺すには、それぞれ、その人たちなりの理由が必ずある。怒りの衝動や楽しそうだからという理由で殺してしまう人たちにも、そうせざるをえない人生の流れのようなものがあるんだ。大切なのは、私たちがそういう彼らのそれぞれの立場や思いを理解して、そうした流れにならないようにしてあげることだと思うんだ。
「てつがくカフェ」は毎日小学生新聞で毎週木曜日に連載中

<4人の哲学者をご紹介>

コーノくん 河野哲也(こうの・てつや)

慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は哲学・倫理学・教育哲学。現在、立教大学文学部教育学科教授。NPO法人「こども哲学おとな哲学アーダコーダ」(副代表理事)などの活動を通して哲学の自由さ、面白さを広めている。

ツチヤくん 土屋陽介(つちや・ようすけ)

千葉大学大学院社会文化科学研究科博士課程満期退学。博士(教育学)(立教大学)。専門は子どもの哲学(P4C)・応用哲学・現代哲学。現在、開智国際大学教育学部准教授。

ムラセくん 村瀬智之(むらせ・ともゆき)

千葉大学大学院人文社会科学研究科修了。博士(文学)。専門は現代哲学・哲学教育。現在、東京工業高等専門学校一般教育科准教授。

ゴードさん 神戸和佳子(ごうど・わかこ)

東京大学大学院教育学研究科博士課程満期退学。専門は哲学教育。現在、長野県立大学ソーシャル・イノベーション研究科講師。中学校・高等学校等での対話的な哲学の授業のほか、哲学カフェ、哲学相談などの実践・研究も行っている。

 

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